huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

F5幸福論

そのボタンを押すだけで
ちょっとした幸福が得られる。
だから、僕らはそのボタンを押していた。

無駄な時間を省く素敵なエコシステム

読者にさえなってしまえば、その人がブログを更新するたびに
プッシュ通知を送ってくれるなんて素敵な機能がはてなにはついている。

自分好みの文章(コンテンツ)を書く人を見つけて読者になってしまえば、
「自動的に」私のもとへコンテンツが送られてくるようになる。

こういった「自動で好みのコンテンツを届ける機能」は少し前から流行っている。

RSSリーダー的なものはもちろんそうであるが、
SNS的なサイト(ツイッターとかFBとか)もそういう機能を内包している。
友達になった人が日記とかを更新するとそれらが目の前に現れる。

こういう自動化は我々がその作業にかけていた時間をなくしてくれる。
面白い人のブログに行っては更新ボタンを押すなんてことはしなくなるわけである。

これってとっても幸福なこと。
更新されていないブログを訪れるという「無駄」を省いて、
他の面白いものを探す時間を与えてくれる素敵なシステムなわけ。

その省かれた「無駄」な時間を使って、
新たに新しいコンテンツを探し求める……




だが、その果てにあったのはコンテンツの死だけだった。



F5幸福論

パチンコのように光と音で奴隷を作る必要もなくなり、
ただ「F5ボタン」を用意するだけで奴隷がつくれるようになった。
「探す」という手間を省いて、「コンテンツ」へ飛ばしてくれる「F5ボタン」。
そのボタンを押すだけで、彼は幸福を感じられる身体にさせられてしまった。

押し寄せる情報に飲み込まれ、彼は息苦しい幸福の中でコンテンツを刺殺する。

ドロップフレーム3 疑問点メモ書き

この作品は実にうまいこと出来ているらしい。
かつての私は「漫画ではない方がよい」なんてことを口走っていたようだが、
その言葉は撤回されるべきであると、今は思う。

一つ一つの巻で常人が辿りつける場所が決定されており、
その次の巻ではそこを起点にした謎が展開されるようになっている。
謎を解いているはずがどんどんとその深みにハマっていく。

第一の到達点は
『実際の日時と彼の体感している日時は異なっている』だ。
それが第一巻では示されていた。

第二の到達点は
『刻鐘閏之介は時間跳躍をしている』だ。
それが第二巻で示されていた。

この二つの到達点の先にあるのが、
この第3巻。

一つずつ明かされるこの世界のルール
その先で彼と彼女は幸せに到達できるのだろうか?

以下バラバラとメモ。

なかったことにされるのは僕たちだった。

「ドロップフレーム」っていって、1秒にするには余分なフレームがあって
だからそのぶんははみ出して「落とす」…つまり、「なかったことにする」んだよ!
――刻鐘閏之介 ドロップフレーム第一巻

本当は存在しないこの日に生まれた人間は・・・
「観測者」がいないと『消えやすい』
これは・・・記憶だけの話では・・・ないぞ・・・
―forgotten Karl ドロップフレーム第三巻

存在しない時間に生まれてしまった彼ら彼女らは、
この世界から無かったことにされてしまう。
それだからこその「そんなことはさせません!」なんてるうが言っていたのだろう。

この漫画の到達点

それは"ひまわり"を手に入れることだろう。
そしてそれは"映画"を作るということなのだと私は考える。
映画という表現は"私はここにいる"という存在証明にはつながらないだろうか?
Forgotten Karlのひまわりと同じだ。

如月閏子は死を持ってそのことを我々に示してくれた。

オーバーラップ

一見すると意味もないような断片たちが
物語を語る上で不可欠な要素となっていることに
見ている方は自然と気づかされていくんだよね。
――閏之介

第二巻でも引用した言葉であるが、
この作品にはこの作品には無駄がない、と思っている。
とすると、第一巻で現れた笑みを浮かべる「るう」はOLなのかと推測される。
(その場合第一巻の1ページ目は8月1日ではなくなるが、閏之介のメモと矛盾する。
 観測者の不在≒夏休みの始まり、からフィルムはバラバラになると考えられるからだ)

色々と見返す必要が出てきますよね。

この映画の監督は・・・・・・

誰なんでしょうね?

Scean1

冒頭のセリフがとても意味深長に聞こえてきませんか?
既に死んでいる人間(るう)を閏之介が刺すという行為を演じさせるなんてさ。

バラバラになる理由

『オーバーラップを第三者に観測されること』と仮定する。
もしそうだと仮定すれば、如月閏子の件も納得できたりしないだろうか?
ここまで仕掛けを盛りだくさんにしておいて、第三者による行為だなんてことにはならないだろう。
この仮定ならば「当日にOLした如月閏子を閏之介が観測した」からバラバラになったのだとすることができる。

あるいは第四のルール「ドロップフレーム」でも出てくるのだろうか?

行き着く先は

一歩一歩
歩んでる間は
わからないけど
きっといつか
完成した姿に
あえるんじゃないかな
「ああ
このための今だったんだ」って
思える日が
――閏之介

××っていう名前の亡霊さんに囚われて

過去って名前の亡霊さんに支えられてるみんなの現在(イマ)
現在(イマ)があるから未来がある
過去は未来への始まり
亡霊さんが成仏したら未来への糧ってやつになるのかしらね
――機動戦艦ナデシコ 第22話 「来訪者」を守り抜け?

現在を正当に評価できるのは未来の自分だけだ、なんて言葉がある。
その瞬間は悪いことだと思っても、実はその経験が未来に生きていることがあったりして、
時間が経ってみないとその時の自分の行動が正しかったのか、悪かったのかはわからない。
言ってしまえば、未来が見えないのだから現在の行動が正しいのか悪いのかなんて判断しようもない。
だからその時々の評価でその行動は善であったと、あるいは悪であったと決めつけるのである。

まぁ、そういう考え方を本当にしている人間がいるとすればそれは、
「あの時のチャレンジ(失敗)があったから私は圧倒的な成長ができたのだ」なんて考える意識が高い人だけだ。
それもそのはずで、過去の私を悪だと断じ切ってしまえば、過去から連なる現在の私までも悪になる。
つまり、先の言葉は現在の自分を正当化するためだけに存在している。

過去と現在をつなげて考えているからこそ、人は現在のために過去を正当化する。

それが「圧倒的成長」につながっているのならばいいが、
「袋小路」につながっていたりするから過去というのはやっかいなのである。

今回はそんな「過去っていう名の袋小路」の一つである「経験」がテーマである。

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物を語るということ

―――
忘れるな、これが物を語るということだ。
―――

作品について語るとき、我々は作品の一部を殺しているのだ。

――なんて物騒な。


これはずっと、ずーっと昔から言っていることだけれど、
私が作品を語るとき、作品は私の型に切り取られる、のである。
つまり、私の判断で語られなかった(私が気が付けなかった)作品の一部は
私の中に残されることなく、この世界から消え去ってしまう。
これってとっても危険なこと。

プラスティックメモリーズなんかが顕著であっただろうか。
あの作品には切り取りやすいいくつかの型が存在していて、
SF的視点とか、アイラとツカサの物語とか、ターミナルサービスとか、その他もろもろ。

多くの人が自分の型の中から、他人が視た物語を否定し合っていた。
「アイラたんペロペロ」「アイラはヒトなの?モノなの?」
「その機能はどこで使うの?」「極大ビームワロタ」などなど。
(それ以前にあの作品は「アイラとツカサ」に周囲が奉仕するという状況があり、
彼ら彼女らの外側の出来事がただただ消費されるだけという不気味ささえあった)

確かにあの作品は一つの視点から切り落とすと矛盾をはらんだ作品だったのかもしれない。
ただ、ここまでの否定が続いてしまったのも多くの人が当初のプラスティックメモリーズに何かを感じていたからだ、と今は思う。
その何かは、アイラが朗読(?)をしている特設ページを開けばわかるはずだ。
あるいはOPかEDか、第一話か。

あの時に感じていた「言語化できないナニカ」がこの作品の核だったのである。
それが、作中の諸々のキーワードによって視聴者の心から切り離された。
プラスティックメモリーズ=ワンダラー(笑)」となった人は、そのナニカを思い出すことすらないんだ。

だから、安易に作品について語るべきではない。
中途半端な語りは作品を損なうだけの行為になってしまうから。

そしてもう一つ作品を語るうえで気を付けるべきことがある。
それは、作品の唯一性を喪失させる「文脈」だ。

文脈の内に組み込むということ【唯一性の喪失】

作品と作品を結び付け、一つの文脈とする行為がネット上ではよく行われている。
かくいう私もよくやっており、「アニマスとシンデマス」「BEATLESSとプラメモ」みたいに、
物語そのものとはなんら関係性を持たない物語を並列に扱ってみたりする。
あるいはツンデレという文脈にキャラクターを組み込んでみたりとか。

そういう行為が目指す場所は「物語」の外側にある。
つまるところ、「私の都合」というやつだ。
自分がとらえた世界をより強固にするため、あるいは昇華させるために多くの物語と物語を
結び付けたり戦わせたりしてみるわけである。

体系的に何かを捉えることに到達できる場所は確かにある。
ただその行為自体は物語から「唯一性」を喪失させる。

ルイズも伊織も大河も「ツンデレ」や「釘宮」の一部でしかなくなる。
佐藤も佐藤も佐藤も「拗らせた人間」の一部でしかなくなる。
さすおにもBクラスも「WEB小説」の一部でしかなくなる。

結局のところ、どこで語るのかという話なのである。
物語という視点で語ってしまえば、キャラクターは物語の文脈に組み込まれる。
ジャンルという視点で語ってしまえば、物語はジャンルの文脈に組み込まれる。

語られるべきは「どこを唯一の出来事として捉えたか」であり、
語りやすい場所を語ればいいというわけではないことを忘れてはいけない。

ある人は「釘宮理恵」から唯一の出来事を感じ取った。
ある人は「水瀬伊織」から唯一の出来事を感じ取った。
ある人は「彼女の物語」から唯一の出来事を感じ取った。
ある人は……

言葉は認識を超える。

―言葉は他人の言葉を利用して新たな物語を紡ぎだす。

これまでは物を語ることの不完全性について話してきたつもりである。

出来事を言葉にするために出来事を加工する必要があるため、出来事から「ナニカ」が損なわれる。
つまりそれは私が体験した「唯一の物語」を他者に同様に感じさせることは不可能であるということでもある。
私が他人になれないように、他人も私になれないのだから「同一の物語」を共有することは難しい。

ねぇ、まなびちゃん。
私ねずっと知りたかったんだ。
まなびちゃんにはこの世界がどんなふうにみえているのかなって
まなびちゃんはいつだって退屈な毎日の中にきらきらわくわくの種をみつけちゃう。
まなびちゃんの目はきっと私とは違う世界をみているんじゃないかなって。
まなびちゃんにはどんな世界が見えてるのかなって。
でもね、でもねまなびちゃん。
いまなら見えるよ。
私にも見える

ただ、彼女の「唯一の物語」を「私の唯一の物語」にすることはできる。
今日はここまで。

念のための補足ですが、
我々が物語に対して必ずしも主体的に選択できるわけではないですよ?
物語もそれ自体が出来事であり、体験であるのでその時々の個人と混じり合って「唯一の物語」を醸成する場合がほとんどです。

物語から何かを選択できる状況は
物語の軸からは外れていますので。

メモ


NTRに何を求めているのか

―――
①「言葉」は「物語」によって定義される。
②「言葉」は「個人の願望」を映し出す。
―――

言葉というものは不思議なもので、
コンテンツが蓄積されるにつれてその意味や目的が曖昧になり、
その言葉が意味しているものが人によって異なるという状態を引き起こす。

それは個人が触れた「物語」が個人と絡みつくことによって言葉が定義されるからである。
※忍者と聞いて「NARUTO」を思い浮かべるのか「忍空」を思い浮かべるのか
 はたまた「ニンジャスレイヤー」を思い浮かべるのかという話ではない。


よくある例を出すならば「どこまでがSFであるのか?」というやつだ。
宙のメソッドはSFであるのか、ガンダムはSFであるのか、プラメモはSFであるのか、などなど
特にアニメをSFに組み込んでしまうのかどうかは議論が大きく分かれるところである。

「視点が変われば世界が変わる」という話もあるように、
SFの視点から見た物語とファンタジーの視点から見た物語が異なった見え方をするように、
自分がどの立場から見ているのか(≒見てしまっているのか)を知ることで
違う視点への気づきや視点のドリルダウンを行うことが容易になる。
(あるいは不確かなものを確かにしたいという欲求か)

そういった言葉の定義付けには「その言葉に個人が求めるもの」が如実に現れる。

例えば、「SFとは現実に一つの嘘を付け加えた物語である」と仮定しよう。
プラメモならば「ギフティアという嘘」
雪風ならば「ジャムという嘘」
BEATLESSならば「人類未踏物質という嘘」
そういった「一つの嘘が世界に与える影響を観測したい」という欲求が現れる。

例えば、「SFとは問いである」と仮定したならば、
例えば、「SFとは超科学である」と仮定したならば、
例えば、「SFとは・・・・・・

そんな風に、言葉には個人がその言葉に求めるものが如実に反映されるのである。
そして求めるものとはその言葉に関する原風景を形作った「物語」によって規定される。



そういうわけで、言葉一つを取ってみても意味が異なるわけです。

NTRの整理

はてなキーワードより

ストーリー属性の一つ「寝取られ」の隠語。
意中のヒロインが他の男とやることを言うが、これにマゾヒスティックな快感を覚える人もいる。
主人公とヒロインと他の男の関係によって様々なバリエーションがある。
素人にはオススメできない。

以下本題。
少し前ぐらいからNTRというジャンルが流行りつつあり、今一度整理を試みる。
※今回は男性―女性―男性の関係性に限ります。
※今回はNTR(寝取らせ)は除きます。
※男性視点からの楽しみ方に限ります。

NTRに必要な役者は以下の3名である。
つまり、三者三様の楽しみが存在しているというわけである。
①女性(②と交際中)
②男性(①と交際中)
③寝取り役の男性
―――
<補足>
女性の立場に感情移入をして楽しむ、とは。
ケンプファーのナツル君に感情移入をして楽しんでいた人がマッチするかもしれない。

女性の立場に感情移入をすると一言にいっても、
「女性である自分」というものに興奮を覚えているものから
「女性として嬲られる自分」というものに興奮を覚えているものまで幅広く存在している。
―――

この三者からどのように感情移入をして楽しんでいるのかをベースに話を展開していく方法も考えたが、
今回は「NTRに求めるもの」をベースにして考えを展開していく。

NTRとなると以下の2パターンがあると考えられる。
A.NTRされてしまう状況に興奮をしている。
B.NTRを受け入れてしまう状況に興奮をしている。


A.NTRされてしまう状況に興奮をしている。
「快楽にのまれる」「男性にいいように使われてしまっている」などといったような
「ばかになりゅう」という状況に興奮をしているというわけである。

キーワードは「快楽の奴隷」である。
女性への感情移入としては、快楽の奴隷として扱われる自分への興奮が、
寝取り役への感情移入としては、快楽の奴隷へ貶めたことへの興奮が得られるだろう。

別段NTR固執する理由はこの層には存在していない。
NTRはそういう需要も満たしている。

B.NTRを受け入れてしまう状況に興奮をしている。
キーワードは「自分の意志」である。

寝取り役への感情移入は単純明快である。
相手に背徳的な行為を自分の意志で選択させることに興奮を覚えるのである。
代表的な例は、相手に不義不徳を「自分の意志で」働かせることへの興奮だ。
「流されて~」という状況を好まないあたり、「支配欲求」が強く見受けられる。
※「聖女さえも堕落する」といったような高潔なものを自らの手で貶めることと類似しており、
 針の振れ幅が大きければ大きいほどその興奮も高くなる。


寝取られ役の男性への感情移入は複雑である。
彼自身は何かを選択することは一切なく、ただ最愛の人を奪われるだけである。
そうした中で感じるものは「喪失感」にほかならない。
つまり、『識』を失った『式』に感情移入をして興奮するタイプの人間です。
※あるいは、トルネコ(いわゆるローグ系)で丹念に鍛え上げた武具の喪失。
※「ほろびゆくものこそうつくしい」とは別物です。

喪失がもたらす「空虚」の一言では言い表せない感情に魅入られた人が楽しめそうです。
あるいは、寝取られ役の男性の不幸に興奮する、
「他人の不幸は蜜の味」を地で行くタイプの人でしょうか?


寝取られる女性への感情移入もまた、少し複雑である。
不義不徳を働いてしまうことへの罪悪感や背徳感に浸るといったことは容易に想像できる。
他者を含め積み重ねてきたすべてを自分の意志で台無しにしてしまう行為への背徳感はいかほどのものであろうか。
それに加え、抑圧からの解放もまた同時に描かれる。
つまり、作中に描かれた彼との信頼や自身の欲求、自身の未来などからの「解放」がこのパターンからは得られるのである。
※「もーどうにでもなれ」というやつで、一種の破滅願望のようなもの。

NTRとは

要約すると「堕とす楽しみ」と「喪失/解放する楽しみ」の二つになる。
前者は「他者を自分よりも下に落とす行為」あるいは「他者を落とし自分を相対的に上げる行為」
後者は「自分を下に落とす行為」である。

大抵の場合は前者を描くことが多く、
後者はあくまでも前者のためのスパイス程度の役割でしか登場しない。
つまり、NTR(寝取られる)というよりもNTR(寝取る≒寝取られた女性)を求めるものが大半だということだ。


本当に誰かを喪失することに興奮を覚える変態大人は少数というわけ。
NTRを知った男性がズルズルと堕ちていくさまを求める声は少数というわけ。
多分。

何かあれば更新することにします。

メモ