huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

夢に関する雑文

心に咲いた花はいつも気高く誇らしく
この世界に対して私は生きていると主張をしている。
私達はこの花を枯らさないように努力をしなくてはいけないのだろうか。

人生は花を育てる事と似ている。
どんな花を咲かせるのかはその人によっても変わるだろう。
だが、我々はその花を咲かせるための奴隷なのであろうか。
夢の奴隷。
夢の奴隷。

例えば、何かの夢があったとして。
それに対していくらかの対価を払わないといけないとして。
僕らの人生はどうなってしまうのだろうかと思う。

夢を叶えるためであるならば、全てを捨ててしまっていいのだろうか。
トップアイドルを目指すためであれば、その他の全てを捨ててしまっていいのだろうか。
まぁ、トップアイドル自体はすべての上にあるものなので、何かを捨てた人間がなれるものでもないか。

でも、当人からすれば捨てたという実感は恐らくないのだろうな、と思っている私もいる。
それが当然なのだから捨てたのではなく進んだだけであり、進む過程でなくなっただけなのである。
進化の過程で失ったものを嘆く人間はそういないはずだから。
それよりも特化したカタチを手に入れるのが進化だから。
目指す在り方に対して合一していくのが進化だから。

でもってそう考えてみると、夢とは奴隷になってもいいと思える対象のことだともいえる。
『あんたは私の奴隷よ』と新しいアリアは言い放つが、『それでもいいよ』と思えたのなら
その人にとってはアリアと共に在ることが『夢』なのだ。

安吾の言う、自分自身の宗教や天皇、というのを言い換えると恐らく夢なのだ。
自分自身の中に定める『譲れない一線』を他者に委ねてしまうな、というわけであり、
その一線は自身の内側にしか見つけられないということだ。

そしてその一線が見つかったのならば、
その他の物事に対して『許容する』ということと『拒絶する』という選択ができるようになる。

その一線が見つからない人間は『判断基準がない』ために、
物事に流されるか、流れの無い場所へと逃げ込む、のである。

ではその一線、自分自身の宗教や天皇であり、奴隷になっても良いと思える夢はどこにあるのか。
先に書いているようにそれは自身の内側にしか存在していないのである。

漫画なんかで良く使われる言葉だが(パッと思い出したのはエルフェンリート
『削りに削った先で残っているものがその人の個性』と言う言葉である。
失くしたくてもなくせないモノこそがその人の夢なのではないか、と言う話だ。

今のご時世は世界にモノが溢れ返っているだけでなく他人さえも溢れ返っている。
自身を見つめ直そうと思っても、溢れ出る他人とモノが個人を薄めてしまうのだ。

だから、インターネット回線を斬り、ゲームを捨て、スマートフォンを捨てた先に残ったものを
仮に信じてみるというのが1つの手ではないかと私は思っている。

多くの趣味に『インターネット』は必要ない。
文章を書くのは素手でも出来るし、メモ帳だってできる。
絵を描くのにピクシブはいらない。
本を読むのに読書メーターはいらない。
音読をするのにニコニコ動画はいらない。

といったように、どうやって自分が暇を潰そうとしているのか、を考えれば
そこが譲ることのできない一線になり、自分自身の天皇や宗教になり、奴隷になれる夢が見つかるのではないだろうか。

私の場合は、考えるに文章を書くということであったようである。
どうでもよいことをこんな風に書き続けることがやはり私は好きなのだ。
多くのコンテンツが私を文章から遠ざけることもあるがそれでも変える場所はココなのだ。

帰ってくる場所があるからこそ、こうして旅にでることができる。
流浪の民と旅人は別物なのだ。

世界は丸い、世界は■、世界は世界。

ウィーラブ世界。

すごーい!!

朦朧とした言葉の羅列

意味なんかないよ。

 

夢のメモ書き
虚無が私を覆い尽くす。
世界は七色の光を持っていた。しかしその光は淡く遠くの空へと消えていった。
その昔、世界には空が無かったl。それは、地球が無かったことの裏返しでもある。

地面があって初めて空が存在できる。
地面を喪失すると空は宙へと変化する。
かなしいかな。私はそのことに気が付くまでかなりの時間を要することとなってしまった。
世界を変えるためには世界を変えるためには、そんな無駄な時間を使うことなんて許されなかったというのに。

神様は意地悪だ。
世界が悪だというのにも関わらず、我々人類には善を為せと申し付ける。
それはとてもとても残酷な物語なのである。

しかしまぁ、なんだかな。
この世界に一人しかいないなんてことがもしもあったと舌ならば、私は神様に忠誠を誓うだろう。
我々人類はどうあっても一人でしかないというのに、一人で生き続けられるようにはできていない。
他者が存在して初めて個人が存在できるとかそういう話ではなくて、ただただ悲しいだけの事実なのだ。

我々は一人である。
にも関わらずこれまで戦い抜いてこられたのは何故か。
我々が常に間違い続けてきたからである。
我々が正しいのであれば、こんな戦争は数日と立たずに終わっているだろう。

世界は戦火に見舞われた。
それはどこの国が悪いとかそういうことは解らないままで、
ただ単純に世界が等しく平等に、人類へと牙をむいただけであるのだ、
我々はとても悲しい。

我々はこんなにも世界を愛しているというのに、
この世界はどうあっても我々人類を愛そうとはしないのである。
ビバ、地球。ラブ、地球。フォーエバー。

なみなみならぬ感情を頂いている我々であったとしても、
世界はそのことを認めようとはしないのである。
寧ろそのことを躍起になって否定する。

それはとても悲しいことだ。
宮ちゃんだって、多分、泣いてしまうだろう。

この世界には悪意が満ちているのではなくて、
この世界がそもそも悪なのであり、世界性悪説こそが真理なのである。
真なる理、それが真理。
倫理君とは決して相容れない残酷なまでに優しい結末。

この世界にはそうした残酷なまでに優しい結末が溢れている。
誰にも見向きされずにSNSに昇華された新宿消失おじさんを始めに、
我々は世界に対して、他人に対してどれだけ優しくなれたのだろうか。
優しさは残酷だ。

優しく出来るうちは感情がコントロールできている間だけのことであり、
その程度の内容しか相手の心に届かなかったということである。
感情が無になる。

世界はこんなにも美しいというのに、
世界はこんなにも美しいというのに。

都落ち下神様みたいな気分かもしれないな。
世界に対して愚痴を言うだけであるならば、誰にだってできるだろう。
しかし、我々が行っているのは革命だ。
それはすなわと
世界を変える爆弾を作っているということなのだ。
私は世界を変えたくない。
私は私を変革させたい。
それはとても残酷な事なのかもしれないけれど。

我々人類は世界に愛されていない。
とてもとてもそれは悲しいことなのである。

愛され方を僕らは知らないんだ。
死し方が下手くそな人間は
どうあがいても世界から愛されることは無くm
世界から虚d絶されるだけなのである。

私はその隙間に存在する神様に寝諸んb言をかましたいのだ。

隙間ラブmどーエバー。

悲しいことに、我々は全裸にはなれない。
世界はこんなにも他人の肌を求めているように、
他人のはあは我哀れを求めてはくれないのっである。
膚は他人をえり好みする。
それはその人の子おころとは別にして。

世界は残酷だ。
故に美しい。

これだkらら世界を殺すことがやめられないのだ。

私は世界を破壊する。

それが私の生きる糧なのだ。

都様フォーエバーラブ、

もうすこしだけ書き続ける事にしたいと思う。
我々の頭の中は消しゴムと圧縮ファイルで満ち溢れている。
そのカギを開く為には思い出すことが必要不可欠なのだ。

それはふとした拍子に思い出すかもしれない。
それは、世界がコ荒れる瞬間に初めて思い出すのかもしれない。

というか、誰だこいつは

こんな優男に負けるなんて私は馬鹿の極みではないのだろうか。

世界を世界史、せかいすれば、我あれは世界からこんなにも利益を貰えるのです。
馬鹿は飛んでも治せない

故に世界を旅させてやるのだ、
部署移動という最悪な通知で以って、

都会の空気コミュ日ケーション

今更"君の名は"を観た感想

随分と時間が経ったのだからぽっぴんQぐらいの人の入りだろうとか、
SAOが映画化したのだからこんな作品みるやつもういないだろうとか、
そんな甘い考えを持って昨年から遠ざけていた"君の名は"を観てきた。

結論から言ってしまえば、
こんな時期にも関わらずオタク以外にも人は多く存在しており"your name"っていう感じがすごくした。
けいおん!とかが好きだったサッカー部あたりの人間に刺さりそうな、そんな映画。

以下感想

コンテンツ
■その声はどこにも届かない
■僕はポエムが好きだった

その声はどこにも届かない

この作品の感想を調べて上がるのが「キレイ」「ふつくしい・・・・・・」「しゅてき」などの語群である。
映像的な美しさ、世界に響き渡る音楽、性的過ぎない可愛さ/綺麗さを保ったキャラクター。
人々の心の上をころころと滑り落ちるように2時間近い映像が流される。

私自身も「綺麗だなー」とか「きゃわいいにー」とか思ったりしていたが、
映画館を出たあたりで「この作品ってなんだったっけ?」となったのである。

『観客も瀧くんや三葉のように思い出せなくなる作品』それが、『君の名は』である。

要するに"掴むところがない"のである。
少なくとも私にとってはそうであった。


ただ、多くの人はこの作品に満足をしている。
私は満足をしていない。

その違いは"言葉"にあった
新海誠さんの昔の作品には感じられて、"君の名は"には感じられない言葉。

この作品のキャラクター達はポエムを話さない。

僕はポエムが好きだった

 練り込まれた設定や興味を引くストーリー展開など、
 "君の名は"は物語・・・・・・というよりかは作品としては良い出来だったのだと思う。

 前世というキーワードから観客にミスリードをさせておきながらも
 最後のあたりで『やっぱり前前前世じゃん!』と気づかせるギミックは
 最近はやりの叙述トリックのような感覚を与えてくれた。


 だが、この作品は人間が中心にいないのである。 

 
 だからこそ、一部の人間は全く面白くないと感じているし、
 だからこそ、新海誠さんの過去作品を観た人は違和感を感じているのである。

 
 ・・・これより前の作品では、「映像」と「音」と「言葉」で出来上がっていたものが、
 この作品からは「映像」と「音」と「物語」で出来上がっている。

 それ故にリア充受けするような"一過性の体験"として作品が完成されている。

 延々とリフレインさせる言葉はどこにもなく、
 繰り返し観る人はギミックだけを探し求める。
 そういう消費されるコンテンツのような気がしてならない。

 
 ここにきてようやく、私は新海さんのポエムが好きであったのだと気が付いた。
 「うまく歩けなくなった」とつぶやく彼女を思い出す。
 「いつか、誰かちゃんと、あたしのことを見て。」と話す少女を思い出す。

 私はポエムが好きで、物語が好きなのではないのである。
 だから私は"君の名は"が好きではない。

オタクはどこへ消えた

 映画館にはオタク!って感じの人はあまり多くはなく、
 逆にカップルやおじいさんおばあさんとかそういったアニメからは遠そうな人、が多かった気がしている。

 オタク達は多分「俺たちの作品ではない」と察してもうどこかへ行ってしまったのだ。
 今あの劇場にいるのは『興行収入』や『知名度』に引き寄せられた普通人ばかりで、
 『アニメ』や『新海誠』に引き寄せられたオタクは去って行ってしまったのである。
 
 もはやあの場にあるのは文脈とそれを共有するための場しかない。

 そう、真実はもう失われたのだ・・・・・・

視聴後メモ



夏めろ summer melody にみる印象と解釈の違い。

「人は見た目が9割」なんて言葉が随分と昔に流行った気がする。
当時は、第一印象で人間というものが規定されてしまうなんて、
現実というやつはよほど不細工というものが嫌いらしい、とか思ったりしたものだ。

だが、今回テーマに挙げるのはコンテンツの話だ。
コンテンツについては上記の「第一印象が9割」なんていう話が適用されない。
それ故に我々は困惑するのだー!みたいな話だ。

例えば、私が直近にブログに書いたコレ。
huzai.hatenablog.com
「少女の少女性は未成熟さにある」とか書いてしまっているが、
実際は解釈に解釈を重ねることで、なんとかこういった結論に落とし込んでいるのである。

当初の感想は以下の通りである。
・水上秋について
 文学少女と運動という相反する属性を兼ね備えた彼女は、多くの男性を虜にするだろう。
 しかし、その実態は属性だけを付随させたただの雌豚(≒少女)であったのだ。
 
 製作者はあたかも、眼鏡をかけさせれば図書委員長が出来上がるとでも思っているのではないだろうか。
 文学と運動というどちらに転んでも男性を喜ばせることのできる属性を用意するだけでそれが彼女の軸にはなり得ていない。
 付随された属性という虚偽に包まれることで、先輩(プレイヤー)という立場を満足させるためだけの少女。
 そうであるならば、彼女はただの雌豚だ。

・エロ表現について
 「女の子が・・・・・・男に可愛がってほしいのは・・・・・・自然なことなんだから」
 後輩と先輩という立場を最大限に利用して、男性の征服欲を満たすためだけに用意された語群に吐き気を催す。
 
 特に、「おち●ちん欲しかった・・・・・・?」から始まり、「秋は男の子だもん」⇒「ごめんなさい・・・・・・秋は・・・・・・女の子でした」で締めくくられる一連のやり取りは、『男の子ってこういうのがすきなんだろ?』みたいな物語の外部から横やりを入れられたような気分にさせられる。

 水上秋から人間性をはぎ取って、ただの少女に貶めるこの行為にどれだけの意味があるというのか。
 ――いや、エロゲーというものは塗り固められた個性(≒属性)を破壊し、セックスを通じて少女に戻す行為を描いているのか?
 そうだとするならばこの作品は少女性を取り戻すための儀式であるのか?断じて否である。無意味。虚偽。欺瞞。
 こんな世界は嘘である。


我ながら、よくもまあこんな言葉を書いていたものだと思う。


だが、これこそが私が第一に感じた感想なのである。 
一言で言ってしまえば「なんてクソゲーだ」というやつ。

だが、いくらかの解釈を重ねることによって以前投稿したような文章になるわけである。
たしか「少女の少女性」についての話だっただろうか?
要約すると以下のようになる。

年上に惹かれる気持ちや小説が好きといいながらも一般の枠から逸脱しないレベルであったり、
運動部に所属しているが逸脱した人間ではなくよくある悩みを抱えているとか。
そういった(私が虚偽とした)薄い膜のような属性を持っているのが少女なのである。

ナボコフ先生ではなく、東野圭吾を読んでいるようなそんな少女なのである。
ふとした拍子に消えてしまうような属性を持つ、そうした自己の確立がされていないところが
少女を少女足らしめるのである。





・・・・・・とまぁ、こんな話をしたのにはわけがある。
印象を深化させることで別の感想が浮き上がるという話がしたいのだ。

今回は、第一印象である「少女の属性が虚偽であった」ことを深化させることで「少女らしさの実感」につながった。
つまり虚偽である属性は、少女の移ろいやすい心を表すためにあったのだ、と気が付いたわけである。
そして、それを「少女の少女性は未成熟さにある」とした。



もし、今回のような解釈を重ねていなかったとしたら、
私にとって「夏めろはただのクソゲー」でしかなかった。

だが解釈を通じてその印象は変化したのである。


つまり、こうだ。


解釈を通じて物語は変容する。
そして、変化した物語は元のソレとは別物になってしまう。
解釈って二次創作だ。

元の物語をそのままにしておくためには文章を書いてはならない。
それをそのまま受け止めることしかできないのである。

私という個人が挟まってしまった時点で、
物語はそちら寄りに歪んでしまうから。


だからこそ、『批評』というやつは
個人を排し客観的な事実や社会的な文脈で読み解こうとするのだろう。
物語を損なうことなく確立させるために。

最後に

私は批評というものを『物語に価値を求める行為』だと認識している。
コンテンツの地平線にある様々な文脈(それは時折社会や世界と呼ばれる)のうえで、
どのような価値があるのかを語る行為であるからだ。

逆に、私が書いているようのただの感想は『物語に意味を求める行為』だと認識している。
自分に対してどのような意味があったのか、についてを書いているだけであり、
それを通じて私は物語を想い出に昇華してしまいたいだけなのである。

・・・・・・なんだか、以前も書いたような話になっている気がするが、
人間というものは忘れっぽい生き物なのでこれでもよいか。