huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

レッテルについて

 


レッテルとはコミュニケーション用語である。

 


人は構造で物事を捉える生き物だから、相手に対して質問を加えることで構造化して捉えるようにしているのである。

 


あなたの趣味はなんですか?

あなたの好きな音楽はなんですか?

休日は何をしていらっしゃるんですか?

あなたのお仕事はどんな仕事なんですか?

 


それらの質問に対する答えから、なんとなくコイツはこういう人だ、とレッテルをつけてコミュニケーションが開始されるのである。コミュニケーションがうまい人になると、こういう露骨な探りをいれずとも話し方や身振り手振りでなんとなくこんなことが刺さりそう、とかこんな風に話した方が聞いてくれそう、などというのが分かってくるらしい。うまい営業マンというのがソレに分類される。恐ろしい。

裏を返せば、レッテルをうまく貼って貰えば、相手に質問≒会話をしてもらいやすくなるのである。アウトドア系の人というレッテルに対しては、アウトドア系の話をしてやればいい・・・みたいなものである。できる人間は相手に対して自分のレッテルを張り替えたりするらしい。恐ろしい。

 


一方で、レッテルを徹底してはがしていくタイプの人間がいる。そう、ぼっちだ。やつら(もちろん私もこの中の一人だ)は、まるで忍者のように自分の情報を伏せたがる。休日は何をしているかと聞かれれば、「いやー、特に何と言うことは・・・」と返し、好きな音楽はと聞かれれば、「いろいろ聴くのでコレというのは・・・」と返す。しまいには、「じゃあ、××は?」と具体的にきかれれば「そういうのもありますよね」と返す。情報量がゼロなのだ。

 


コミュニケーションによって得られる情報がゼロとなると、外観や印象でレッテルを貼るしかなくなり、人は見た目が9割となってしまうのだ。その上、相手に情報を与えないタイプの人間は、昔と異なり社会に擬態するようになり外観からの情報もゼロに近しくなりつつある。

 


そうなると、コミュニケーション不能となるのだ。合う度に初めましてなのである。

 


そういうレッテル忌避症候群にかかった人間は、どういう人間なのかを考えたい。

 


単純に、そういう関係性がフェイクだと思っているのか、目に見せられるレッテルが存在しないタイプの人間か・・・・・・のどちらかである。両方ともオタクによくある傾向である。

 


前者は、相手を試すようなもので、「そんなレッテルを貼らずに私を視て」という意思表示で、仲良くなった相手に対してあえて遅刻をするなどの無理や理不尽を働いてそれでも私を視ているか、を試したりする。

 


後者は、臆病者のことであり、「好きな物がSFだといえば、多くの人からマウントを取って殴られる」と考えているのである。自分の趣味を明かすときは相手が自分と同じかそれ以下だと認識できたときっだけなので質が悪い。

そして、それが派生すると、コミュニケーションにコストを裂きたくない、というタイプの人間が発生する。それが私だ。

 


相手に対して常にマウントを取り続ける為には相手よりも情報量を多く仕入れておく必要がある。例えば、アイドルマスターが好きだというのならば、全ての楽曲を聴き、全てのゲームをプレイし、全てのラジオを聴き、全てのライブに参加することが必要となる。まぁ、そんなことは不可能・・・・・・とは言わないが、とてつもない労力を払うことになる。そして、その情報量こそが「愛」だという認識にたち、それらを体現することに時間とコストを掛けるのである。

 


一時期の私はそのようなことをしていた。

「好きだから」ではなく、「好きを証明するために」物事の細部まで知ろうとしていたのである。そして、そのことに私はとても疲れてしまったのだ。マウントを取ろうとするのがオタクだと言ってしまえばそれまでなのだが。

 


だから、私は好きを表明しない。少なくともレッテルという範囲では。

 


ゲームが好きだとは言わないし、アニメが好きだとは言わないし、ラノベが好きだとも言わない。ただ、私が好きになったものがそれらに属していたのだと私は言い続ける。お前のための言葉など存在しないのだと。

友達について

 


女を羨む時がある。

それは、友人という間柄について考える時だ。

 


男性同士の友人は度が過ぎれば気持ち悪いが、女性同士の友人は度が過ぎても気持ちが悪くない。そんな気がしているのである。

 


女性同士がいちゃいちゃではなく、仲良くしている作品は2次元上には氾濫している。それの何がうらやましいかというと、ただ一人の友人がいればそれで救われるのではないか、という視点である。男同士がただ一人の友人と遊んだりしているとそれはいつかのホモとなる・・・なぜ、社会はそうして男性は女性と、女性は男性と、といったように、すぐに恋愛感情へと昇華させようとするのであろうか。

 


一定のジャンルとして確立しつつあるTS(トランスセクシャル)とはこれは似たような部分がある。あくまで一部であり、全部ではない。

 


TSの病は大きく3つに分類される。

①イヤな顔されながらおパンツをみせて欲しいの高度を上げたもの。=それはつまり征服欲。

②ただ単に犯されたい。それはつまり被虐心

③愛されたい・愛したいという欲望=それはつまり愛欲

 


①~②は単なる性欲の類いの話であるので問題は無い?のであるが、③は愛したい・愛されたいという欲望である。裏を返せば、今の自分では誰も愛すことはできないし、愛されることもあり得ない、という思想から生まれているのである。

 


③とはつまり、自己の否定なのである。

言ってしまえば、「異世界転生もの」と同じような物なのだ。

異世界転生が「××しただけだが?」という自分の常識と異世界の常識のギャップでマウントを取る野に対し、TS物は「あっ、そっか・・・今の俺は美少女だったのか・・・」という男性の意識がもたらす無知シチュエーションが男性を虜にする様でマウントを取っていく。その果てで、メチャクチャに愛されたり、かわいそうな男子を愛してみたりするのである。他人を自身の行動でコントロールしてみたりする果てで、相手に自分をコントロールされてみたりする・・・・・・みたいなことをしたいというわけだ。

 


有り体に言ってしまえば、「他人に影響を与えたい」というものと同じなのだろう。今の自分が積みセーブだからリセットしたいという訳だ。氾濫するなろう小説はそうした閉塞感に対する処方箋?・・・ではないな。えーと、痛み止めみたいなもので、人によってその種類がTSだったり異世界だったりなんだったりする訳なのである。

 


話がそれたので、元に戻す。

 


男性と男性が仲良くすれば薔薇が咲き、

女性と女性が仲良くすれば百合が咲く。

 


そのことについては否定するつもりはないが、別段男性と男性を特別視する必要も女性と女性を特別視する必要もないのだと思っていて、ただ単に、好きになった人がその人だった、で良いのではないかと思う。男性だから好きになった訳でも女性だから好きになった訳でも無いはずだから。

 


多分、それが私の違和感だ。

男性と女性がお酒を飲めばセックスに至る。

それが社会通念というものらしく、それに私という人間も囚われてしまっているらしい。

他人との関わり合い、特に女性との関わり合いに対して消極的なのはそれが原因なのだろう。男性と女性の遊びにはどうしても「意味」がつきすぎてしまう。だから、イヤなのだ。思い返せば、学生の時もそれが嫌いで孤立した記憶がある。

 


中学生の頃はよく友人として女性とも話していた記憶があるが、ある日を境に「××くんって○○ちゃんのこと好きなのー?」となったことがあった。そこから女性と話すことはなくなり、大学生の時もゼミナールで似たようなことが発生し女性と話すことがイヤになったのだ。社会人になると自分よりも年上と話す機会の方が多くなり・・・・・・その話はまた今度にしよう。

 


で、だ。

何が言いたかったのかというと。

どれだけ仲良くしても許される間柄が、

ホモやレズの概念によって駆逐されつつある。

もちろんそれは社会の眼を気にしなければ良いという話なのであるが、それほど私は強くない。

ただ単に、一人の友達が欲しかっただけなのだ。

それが仲良くしていく内に恋愛感情が発生する、あるいは恋愛感情として取り上げられるのが苦痛で仕方が無かったのだ。

 


恋愛関係の介在しない、発生のしない空間。

それが私のTRUE ENDのような気がする。

 


もしかすると、そういう風に一緒に行動したい相手のことを恋人というのかもしれないが。

無能な社畜は鬱になれない

 


 社畜という言葉に明確な定義はないけれど、下を見下ろしてばかりいると正気を見落とすらしいので。ここでは社畜とは精神状態ということにしておく。労働時間が×時間以上とか、サービス残業をしているとかそういう時間に関する定義や毎朝社是を絶唱するとか謎のランチミーティングが発生するなどといったことは条件から外し、ただ自分が、社会の畜生になっている・・・・・・という感覚がある人を社畜としておきたい。

 


 そしてそうした社畜をターゲットに労働力を収集しようと簿膨大な広告が世に放たれている。社畜はあのクソみたいな広告につられる前に踏みとどまって欲しい。そして、考えて欲しい。お前を欲しがる会社がどこにいるのだ、と。

 


 優れた社畜は「成果」を褒められ、無能な社畜は「精神性」を褒められる。前者はワーカーホリックと呼ばれ、後者が正しい意味での社畜と呼ばれる。そして、労働力を食い物にする業界においては後者のタイプの社畜が尊ばれるのである。というのも、若い労働力は比較的に低コストでさらに無能とくれば昇給も余り見込まれず、数年の間に自己都合退社に追い込むような激務を課し、その裏で新入社員を雇えば、低いレベルで給料水準を保つ労働力のスクラップ&ビルドが成立する。こういう会社のえぐいところは労働能力ではなく純粋な労働力が求められるところであり、社畜は成果を上げることができず、本当の意味での「うちを辞めたところでどこにも就職できんぞ」という状態が発生する。(ただし、自己都合退社に追い込むレベルの激務を乗り越えた人間は「優秀な社畜」として成果を上げる側に回り、転職チャンスが与えられる)

 結局のところ仕事における明確な評価基準というものは数値や言語化できる成果にしかなく、過程というものは往々にして認められることは少ない。(難しいクライアントから1つの案件を手にするエピソードよりも、簡単なクライアントから10の案件を手にすることの方が評価される)しかし、その働く社員が無能である場合にはその過程・・・・・・つまり精神性を褒めることしかできなくなり、無能な社畜が社内で膿のように溜まっていくのである。これが俗にいう大企業病である(大嘘)。

 


 地獄への道は善意のアスファルトで敷き詰められている・・・・・・とは誰の言葉であっただろうか、今はもう思い出せないが、無能な社畜という道もまた同じような構造になっている。社会的に働く能力のない無能を救うセイフティーネットは蜘蛛の巣で、使えなくなるまで使ったらぐるぐるポイで捨てられる。普通の会社に入社しても、成果を上げられない無能な社畜は実績を積むことができず転職できる能力もなく、昇級できる見込みもないまま死んでいく。

 


 新卒という貴重なカードを失い、社内で実績も作れずに転職できる力を得られなかった人間にできることといえば、与えられたその小さな小さな一人分の日だまりにしがみつくしかないのである。もちろんその日だまりには二人はちょっと入れないので結婚することはあきらめるしかないない。鬱にでもなろうものなら自分のいた日だまりには新しいガラス玉がおかれ、自分は外にはじき出されて砕け散っていくことになる。そして、自分の労働力としての有益さを最大限に立たせる為に、残業やサービス残業といった+αの労働を自分に課していくのである。それが好きでやっているのならばいいのだが、社畜だと想いながらやっている場合はどうしようもない。

 

 

 

 つまるところ、無能な社畜は鬱になれない。

 

 

 

 巷でよく聞く「3年経ったら転職」というやつは「3年も働けばその業界のことが分かるから」という意味以上に、「3年も働けば何かしらの実績がついて転職できるから」という言葉があるように思えてならない。というよりも多分そうだ。

 


 この地獄から抜け出す方法は自分殺ししかない・・・・・・となると余りにも救いがなさ過ぎる。だから、考える。一つは労働以外の手段で賃金を得るということ。仕事と生活費が紐付いてしまっているからこそ、鬱=退社=死となってしまう。労働以外で金銭的に自由になる手段と言えば、「宝くじ」しかなくなってしまう。特に無能者は株やFXなどに割けるだけの時間も能力も持っていないので、一発逆転、ワンチャンあるぞ!と宝くじ売り場に駆け込む。言い換えれば神頼みというものです。

 しかし、それでもどうにもいかんぞとなれば、やはり「転職」するしかないのでしょう。もちろん、転売などをはじめとした副業を始めることも全然ありなのだが、それでは現業が死んだままになってしまうので難しい・・・・・・というか、現業がママならないのに、それ以外のことで成功するなんて甘い考えすぎる。

 

 ここまで来ると「転職しか道がないが、転職するための実績がない」という事実が明確に見えてくる。ドラクエでも転職するためにはレベルを上げなければならなかったように、今の無能な社畜のままでは転職できないのである。(転職できる会社があるとすれば「レベル1でも構わない」か、「本当の天職」のどちらかだろう)そこから導き出される結論は「レベルを上げろ」しかなくなり、圧倒的成長を求める意識高い系になるだけとなる・・・・・・が、それができないから無能なわけで、これでも救いがない。

 とすると、後に残るのは「他人に話せる実績作り」となる。社会人になってから発生すると言われる同窓会というイベントでは「俺××の仕事やってんだぜ」と業務内容によるマウント合戦が発生すると聞いたことがある。このマウントと同じ、というと響きが悪く辛い気持ちが高まるが、この意識が大事なのである。「今やっている仕事内容で他人にマウントとって話すためには何が必要か」ということを考えながら仕事をすると、「相手から見てすごい仕事をしているやつ」のように見せることができるようになる。これがあると自分の仕事が話しやすく、同じことをやっていてもトクをすることができるようになる。逆にこれをやっていないと「自分の仕事をうまく話せない」ことになり無能者としての意識と辛みだけが増していく。

 もちろん、こうした行為に対する「気持ち悪さ」を感じることは多分にあるので、私自身やりたくない。ただ、年がら年中「ぎょーむがつらい」と呟きながら出社するくらいならこういうことをやってでもその社から脱出するしかない。

 

 

 

もちろん不安だってあるわ。

冒険の先に何があるのかは誰も分からないから。

でも、不安は分かち合えるって、一緒に立ち向かえるってわかったから。

だから、前に進もうと思えるの。

 

 

 

島村さん選んでください。

このままここに留まるのか、

可能性を信じて進むのか。

どちらを選ぶかは島村さんが決めてください。

 

 

 

 


・・・・・・まぁ、社畜の転職先に待っている人などいませんが。

【感想】僕らは白銀武になれなかった/マブラヴオルタネイティブ

とてもちいさな、とてもおおきな、とてもたいせつな、 あいとゆうきのおとぎばなし

 

――僕らは白銀武になれなかった。

マブラヴオルタネイティブ(以下オルタ)ではプレイヤーと白銀武が完全に切り離されて、一連の物語を当事者としてではなく「視聴者」として「視聴」させられることになる。

僕らはまるで映画か何かを見せられるかのような気持ちになる。

僕らの感情は置き去りにして。

 

おとぎばなしで幸せになれるのは登場人物だけで、

それを聴いていたヒトは幸せにはなれない。

 

それが、マブラヴオルタネイティブ。

マブラヴ オルタネイティヴ(全年齢版)

コンテンツ

■僕らは白銀武になれなかった。

御剣冥夜は変わらない。

■感想

 

僕らは白銀武になれなかった。

白銀武がオルタで日本人ではないことに悩んだように、

僕らは白銀武ではないことに悩み苦しんだ。

EXTRA~オルタまでの一連の物語のおいて鑑純夏への愛の中心は「過去」にある。

冥夜の登場とともに、積極的になった(ならざるをえなかった)鏡純夏が行動することによって、それまでの想い出が想起され鑑純夏√に到達する。

 

それはつまり、他の登場人物とは異なり「プレイヤーの体験=想い出」ではなく、「プレイヤーの知らない想い出」だけが彼と彼女の間に育まれているわけであり、それだけが彼と彼女の愛を構成していることになる。

 

個人的にはそれが一番ショックだったんですよね。

オルタは鑑純夏の物語で、プレイヤーの感情は関係ないと言われたみたいで。

 

EXTRAやUNLIMITEDでは少なくともプレイヤーとして「意志」を反映する場所がゲーム内に存在していたのですが、オルタではプレイヤーから「意志」を剥奪し、ただの視聴者に貶められる。その上、物語の中心にある感情は「プレイヤーの知らない想い出」であり、一切の感情移入が不可能になる。

 

つまり、僕らは白銀武の原点に触れられない。

 

そうなると、彼と彼女の感情は置き去りにしてただ戦場で繰り広げられる「意志」に注目をして、「成長」とかなんだとか語り始めてしまう。圧倒的成長↑↑を求める意識高い系の慰み者になるくらいなら、この物語は終わってしまえばいい。EXTRAでも十分に白銀武は成長していた。

 

 

 

御剣冥夜は変わらない。

オルタを始める前日までEXTRA彩峰√で冥夜が振られるシーンを繰り返し見続けていたのですが、オルタでも冥夜は変わらなかったですよね。もちろん、過ごしてきた環境が違うので異なる部分は多少あれども、その根本にある話し方や考え方、関わり方は変わっていなかった。

 

「御剣として生きていたならば絶対に知り得なかった、何ものにも代え難いものを・・・・・たくさん手に入れることができたのだ・・・・・」
「人との出会いは、どれも大切なものだ・・・・・」

EXTRA彩峰√の冥夜

「これで、ここにいる理由もなくなってしまったな・・・・・」
「冥夜・・・・・おまえ」
「何も言うな。はじめから決めていたことだ」
「・・・・・」
「明日にでもいなくなるというわけではない・・・・・」
「・・・・・冥夜」
「そなたが選んだ道の行方、見届けたいのだ」
「・・・・・え?」
「この私をそでにした男がふられる姿を見ることができるかも知れぬのだぞ?」
「お、おまえな~」
「ふふふ・・・・・」
「こういうときに、そういうこと言うかよー?」
「・・・・・ゆるすがよい。
私とて弱さを持ち合わせているのだ・・・・・」

EXTRA彩峰√の冥夜

「そのようなことは些事だ。
今はそなたがどうしたいかが問題ではないのか?」
「え?」
「・・・・・・何かに怯えて遠慮しているフリをするのは簡単だ」
「・・・・・・え?」
「踏み込むことで相手に迷惑がかかると思って逃げることは簡単なのだ・・・・・・」
「・・・・・・冥夜」
「だが、それでも・・・・・・・・・・・・自分の気持ちにウソをつけぬから、私はここに来た」

EXTRA彩峰√の冥夜

 

EXTRA彩峰√の冥夜をざっと見返してきたのですが、

何となくオルタで現れた言葉や思想の根本はここにも表れている。

もちろん、「意思」が現れ「結果」が死として残る戦場ほど重たく鮮烈なものではないですが、それでも言っていることは同じです。私にとっては。

 

感想

冥夜に会いたくてオルタを購入したので、これであればEXTRAだけでよかったなー。

異なる物語(オルタネイティブ)であってもそこから得られるものは同じだから。

 

正直な話、EXTRA~UNLIMITEDまで冥夜√を駆け抜けてきた関係もあり、いきなり白銀武が「俺は鑑純夏が好きなんだ・・・・・・」とつぶやいた瞬間に完全に醒めた。

 

その上、「今、純夏に会うのは辛いから冥夜に会って遊んでから振って、純夏のところに行こう」と考え出した時点で、俺とお前は別人だと気が付いた。

 

そこからはロクに感情移入することすらできず、プレイヤーから完全に視聴者に移り変わった。多分作者はエロゲーではなく映画か何かでも作っている気分だったんじゃないかな。

 

そこから「甲21号作戦」から「桜花作戦」まで続いていくのだけれど、

面白いくらい簡単に(というと失礼だが)登場人物が死んでいく。

白銀武も視聴者もちろん悲しんだりしているわけではあるのだが、

その一方で軽く扱われた「死」に慣れてしまいそれほどの感情が揺れない。

 

 先にオルタネイティブをやっていればまた、別だったのかな。

私にはこの物語は不必要だった。

この物語に情念はなく。 星明かりグラフィクス 1巻/感想

帯の文章に騙されてはいけません。

これは美大ではなく大学生の日常です。

 

星明かりグラフィクス 1 (HARTA COMIX)

 

概要

思春期特有の豊かな感受性が負の方向に爆発して、人が泥の固まりにしか見えなくなったデザイナーの星。

 

美大って才能を磨く所じゃなくて本当に才能のある人間とコネをつくる所だ」というプロデューサー気質の明里。

 

美大という場所を中心にして描かれる、二人の女性が各々の都合で利用し合う関係を描いた物語。

 

感想

虎が出ると思っていたら猫だったみたいな状況がまさにこの本。

美大×女性×女性=感情、そういう何かを期待して本を手に取ったものの、

そこに描かれているのはただただ二人の大学生が利用し合う日常だけだった。

 

少なくともこの1巻では、

天才と凡才、コミュ障とリア充、デザイナーとプロデューサー、

そういった作品に込められた対立構造が活かされる場は殆んど存在しておらず、

その上彼ら彼女らの感情の一切が(というとオーバーだが)描かれない。

 

友達の友達の話みたいなもので、

「そういう出来事があったのだ」と認識することはあっても、

そのことについて深い興味が得られるようなことはない。