huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

端的に労働に向いていない。

向き不向きなんて存在しない。
あるのはその方向に向こうとする意志があるかどうかだ。

だから、僕らは働いています。必死で社会の方を向いて。


 労働に向いていないと感じるときはいくつかある。私の中で一番大きなソレは「コミュニケーションコストが他人よりも膨大にかかる」ことである。
 コミュニケーションコストとは、何かを実行する際に他人に何かを説明・依頼する必要がある場合に発生する。コミュニケーション能力が低い人間ほどコストに対する成果や成功率が圧倒的に低くなる。私の場合だと、10のコストで1の成果しか上げられないのに、上手い人の場合だと、5のコストで8の成果を手にすることができたりする。
 そういう「低いコミュニケーションコストで高い成果を得られる人間」を社会ではコミュ力の高い人と呼んでいる。そして、そういう人たちは社会に向いている・・・・・・のだと思う。

 昔であれば「労働時間を掛ける=コミュニケーションコストを積みます」ことでその能力の低さをカバーすることができたものである。コミュ力の高い人ならば電話一本で済ませてしまうようなことを、口頭で伝えきれないから文章を作り、資料を作り、そうやって100のコストで10の成果を獲得することができた。
 だがしかし、昨今は「労働時間の是正」なるものが横行しそうしたコミュ力の低い人間が圧倒的な弱者へと変貌しつつある。そういう人間ができる手段としてはこうしてお家で足りないコミュニケーションコストを払うことだけだ。
 
 コミュニケーション能力の低さがごまかしきれなくなってくると、さらに最悪なことが起こる。
 それは、他人に説明しなくなるということだ。
 
 往々にして、こうしたコミュニケーション能力を持たない人間は、「他人とのコミュニケーションにスタミナを消費する」のである。
 普通の人であれば「ただの相談」や「ただの会話」でしかない当たり前の行動が、スペシャルな活動になってしまうのである。私自身がそういう人間なので、極力コミュニケーションが発生する場を減らそうと、エレベーターは同僚と鉢合わせた時に会話をしなくてはいけないから階段を使ったり、お昼ご飯で同僚と出くわさないために遠くの誰も使わないであろうお店にいくなどを実践している。
 そんな風に極力コミュニケーションする機会を排除することで少しでも仕事のために余力を残そうとしているわけである。
 だが、大抵の場合は15:00を過ぎる頃にはコミュニケーションをとる精神力が尽きており、会社という空間に晒されていることが苦痛になってくる。もちろん、会社にいるすべての人間が自分という人間に注目をしているわけもなく、会話を仕掛けてくることもないのだけれど、そういう可能性を秘めている場所にいることがどうしようもない不快感を与える。ドラクエで言えば毒の床に立ち続けているようなもんです。そこに居るだけで心にダメージを負っていく。
 そういった事態に陥ると、こういう人間は他人に頼る・尋ねるということができなくなる。大抵の場合、他人に頼らなくてはならない、尋ねる必要がある場合というのは「自分ではどうにもできない場合」であり、他人に迷惑をかける行為である。そうした時に消費する精神力は膨大なもので、それを実行に移すことはできやしない。そうするとトラブルが後で発生し、炎上していく。爆弾を抱え込み、他人の銃弾を抱え込み、すべてがどうしようもなくなる納品間近で自爆特攻を仕掛けて台無しにするのである。
 あるいは尋ねられないことで可能性を潰しきれず、普通の人の倍近い案を提出する必要が出てしまったりして辛みをまして言ってしまう。正しく仕切れないことは当人だけでなくその周囲の利害関係者にも迷惑を掛けるので、普通に関わりたくないタイプの人種です。
 
 
 そんな風な人間が、いるわけです。
 

 でも、そんな人間でも他人との繋がりは求めていたりするもので、コミュニケーション自体が嫌いなわけではなかったりするので、性根自体は労働に向いていないわけでもない。
 
 
 結局のところ、向いている向いていない以前に「労働が好きではない」ことが問題である。もう少し強くいうと「労働を好きになる理由が一つもない」ことである。
 コミュニケーションコストの掛け幅とは結局精神的なものでしかなく、自信があったり、コミュニケーションを取る精神力があればコストはその分だけ下がって低いコストで正しく伝えることが可能となる。会社での会話は辛くても、身内との会話は簡単にできるみたいなもの。そのときの体調やモチベーション、対峙する相手や目的によっても変わってくる。もちろんプロと呼ばれる人間になってくればそのあたりもコントロールして「やっていく」感じになるのでしょうが、普通人であればそうした揺れが発生する。能力のない人間はその揺れをつかってやっていくしかない。
 

 労働に向かないコミュニケーション弱者は他人との会話にコストを消費する。労働を円滑にかつ楽に進めるためにはコミュニケーションは必要不可欠で、なんとかしてそのコストは引き下げる必要がある。だが、能力は最低値のため環境によって変動する「精神的な楽さ」を引き寄せてやっていくしかない。
 その手法は次の通り。
 
 ①自信をつける。
  これは筋トレをしたら人生が変わった的なメソッドと同じもので、無意識にオタクなぼっちが実践している内容である。
他者では到達できない異世界の自分という「厨二病という自信」を身に纏ってみるとか。もっと卑近な例を上げると「イラスト書き始めたり」「小説を書き始めたり」するのもその内の一つだったりすることがある。もちろん、全体からみれば一部かもしれないが、オタクとしての自分に自信をつけるためにそういうことをするのはよくある現象だと思う。どこでもいいので他人からマウントを奪えるものがあると感じれれば少しはましになるのだろう。労働能力でマウントを奪えるのがベストだろうが、そもそも労働が嫌いなはずなので、人間全般にマウントを奪える暴力を身につけるのがベストだろう。筋トレをし、バタフライナイフを胸に隠して歩けば強くなれる。
 
 ②何かを好きになる。
  労働が好きになれないなら、何かのために労働をしている状況を作り出すしかない。視点をちょっとズラして目を背けるタイプのそれなのでどこかで破綻するかもしれない。何のために戦うのかと聞かれた「仲間のため」と軍人が答えていたように、労働の目的自体を好きになれなくても、労働に付随する何かを好きになることはできるかもしれない。だが、そもそもコミュニケーションが嫌いな人間が何かを好きになることはないのであきらめた方が良い。

 ③お酒を飲む。
  理性的な状態だと「踏み込むことで相手に迷惑がかかる」とかを考えて話しかけられないが、お酒を飲んでしまえば考えるよりも先に手が出ることだろう。最近は会社に備え付けのコーヒーを飲む風習やペットボトルや缶コヒを飲まなくても良くなり、水筒を持って行ける環境ができあがっている。中身の見えないステンレス製の水筒に詰めたコヒにウイスキーを混ぜ合わせて辛みを感じた時に一口あおる。そうすればきっと幸せになれる。
 
 ④会社へのダメージを考える
  労働を生み出しているのは会社なわけで、自分という労働力が消失して一番ダメージを受けるであろうタイミングを考えながら仕事をする。できるだけ多くの作業をブラックボックス化しながら利益を積み上げていき、これ以上は無理だなというところまで積み上げてから退職をする。会社に残るのは無秩序で前後関係を把握できない引き継ぎ資料だけであり、後に残された人間は仕事の棚卸しと再整理に追われることになる。本当にやめてくれ、と思う。

 
 とまぁ、能力がない人間は気の持ちようでやっていくしかない。そんなごまかしでも進んで行けば経験値は溜まり能力を手にして自分で立ち上がることができるようになる。

 精神論は自分で立つことのできない無能に捧ぐ祈りだよ。

空の彼方の腕の中

常々思うのが自分の能力の低さである。
私はどこにいって、どこにカエろうというのだろうか。。
私には分からない。私にはわからない。

きっと海の向こうには星空がきらめく銀河があって、その星の果てでは私も空に恋をすることができたのではないだろうかと思っている、最近のストレス事項はなんだろうか。
他人がどんどん嫌いになりつつある。その一方で、他人を強く求め始めているということも感じている。
世界はだれも優しくない。世界はだれにも優しくない。

いつまでも夢の世界に居られたならば、きっと私はそこにとどまり続けるのではないだろうかと思う。
私は誰からも求められず、誰からも必要とされず、全ての世界に於いて代替品でしかないのだから。
私は代替品にはなりたくないのだ。
全ての世界に於いてオンリーワンになりたいのだ。

きっと。

そういうことなのだと思っている。誰からも愛されない今の自分から反転して、誰かから愛される人間になりたいのだ。元々やろうと思っていた音読とかそういうあれやそれやはどこか宇宙の彼方に消え去ってしまったのだ。
私は未だに何もできないで居る。どこにも到達できないまま空に恋して海に憧れて、何も手にすることができないまま地面とキスをしているのである。
どこに行けば、私は救われるのだろうか。


救われる。
救われたいのだろうか。
救いとは、なんだろうか。

なにがしたいのかがわからない、
何をすればこの悲しさやさみしさが満たされるのかが分からない。
仮に友達や恋人ができあがれば何かが変わるのだろうか。
何も変わらない気がしている。
だって、環境が変わっただけで、私が変わったわけではないから。

そこに救いは一切無い。

ああ、今からでも何かを好きになれるのかな。
恋に子追いするお年頃。
なんだろうか。私はどこに生きたいのだろうか。
しらなーい。

音と光で私を忘れて

強い光と音だけが、私を孤独から忘れさせてくれた。
私にとってパチンコとは、つまり、そういうものなのだ。
パチンコから離れてみて、ようやくそのことに気がついた。
私はただ、孤独から逃れるために、パチンコに行っていたのだ。

どうしようもないぼくに、いつか天使が降りてきてくれますように。
救いはイツだって、天から差し伸べられる。
だから僕らは地下にいる。
できるだけ身体をおって小さくし、空から伸びる一本の糸を待ち焦がれる。

コミュ障というのはそういうモノなのだ。
天から垂らされる糸を待つ存在。
それがコミュ障なのだ。
それがさらにこじらせると糸が垂れてきただけでは、、なにもできず、
私を見つけ、私を引っ張り出してくれるような人間を永遠に待ち続けるのだ。
そう考えると、あの子はすごいな。
自分から行動することができたのだから。

孤独に向き合うことが私にできるだろうか。
パチンコをやめるとは、つまりそういうことだ。
孤独に向きあう。

今までもそうだ。
孤独から逃れるために、、時間をつぶせるゲームに身を費やした。
そのほとんどが代償行為だったのだ。
孤独を埋め合わせるための代償行為。
何かをしているという実感。

何かをしていないと、孤独に塗りつぶされてしまいそうだったから。

そう考えると、私の行動のほとんどが孤独の埋め合わせのような気がしてならない。
アニメも、映画も、パチンコも、自慰行為でさえも。孤独をごまかす手法でしかない。
孤独とは恐ろしいモノだ。それそのものから逃げることはできない・

かといって、
いや、それを言うのは嘘だろう・。
孤独以外を知らない私が、それ以外を論じるなどと。
そんなことは許される行為ではない。

その、つまり、なんだ。
私は孤独である・
友と呼べる人間はおらず、
休日に行う行為すら見つけられていない。

友達とは何であろうか。
それが、私には分からなくなってしまったのだ。
友達って何だろう。早く、友達がほしいなぁ・

もし、私に友達ができたのならば、このセカイも変わって見えるのだろうか。
寂しさを埋め合わせる他人がいたならば。。
それは幸せなことなのだろうか。
私にはわからない。
わからない。

レッテルについて

 


レッテルとはコミュニケーション用語である。

 


人は構造で物事を捉える生き物だから、相手に対して質問を加えることで構造化して捉えるようにしているのである。

 


あなたの趣味はなんですか?

あなたの好きな音楽はなんですか?

休日は何をしていらっしゃるんですか?

あなたのお仕事はどんな仕事なんですか?

 


それらの質問に対する答えから、なんとなくコイツはこういう人だ、とレッテルをつけてコミュニケーションが開始されるのである。コミュニケーションがうまい人になると、こういう露骨な探りをいれずとも話し方や身振り手振りでなんとなくこんなことが刺さりそう、とかこんな風に話した方が聞いてくれそう、などというのが分かってくるらしい。うまい営業マンというのがソレに分類される。恐ろしい。

裏を返せば、レッテルをうまく貼って貰えば、相手に質問≒会話をしてもらいやすくなるのである。アウトドア系の人というレッテルに対しては、アウトドア系の話をしてやればいい・・・みたいなものである。できる人間は相手に対して自分のレッテルを張り替えたりするらしい。恐ろしい。

 


一方で、レッテルを徹底してはがしていくタイプの人間がいる。そう、ぼっちだ。やつら(もちろん私もこの中の一人だ)は、まるで忍者のように自分の情報を伏せたがる。休日は何をしているかと聞かれれば、「いやー、特に何と言うことは・・・」と返し、好きな音楽はと聞かれれば、「いろいろ聴くのでコレというのは・・・」と返す。しまいには、「じゃあ、××は?」と具体的にきかれれば「そういうのもありますよね」と返す。情報量がゼロなのだ。

 


コミュニケーションによって得られる情報がゼロとなると、外観や印象でレッテルを貼るしかなくなり、人は見た目が9割となってしまうのだ。その上、相手に情報を与えないタイプの人間は、昔と異なり社会に擬態するようになり外観からの情報もゼロに近しくなりつつある。

 


そうなると、コミュニケーション不能となるのだ。合う度に初めましてなのである。

 


そういうレッテル忌避症候群にかかった人間は、どういう人間なのかを考えたい。

 


単純に、そういう関係性がフェイクだと思っているのか、目に見せられるレッテルが存在しないタイプの人間か・・・・・・のどちらかである。両方ともオタクによくある傾向である。

 


前者は、相手を試すようなもので、「そんなレッテルを貼らずに私を視て」という意思表示で、仲良くなった相手に対してあえて遅刻をするなどの無理や理不尽を働いてそれでも私を視ているか、を試したりする。

 


後者は、臆病者のことであり、「好きな物がSFだといえば、多くの人からマウントを取って殴られる」と考えているのである。自分の趣味を明かすときは相手が自分と同じかそれ以下だと認識できたときっだけなので質が悪い。

そして、それが派生すると、コミュニケーションにコストを裂きたくない、というタイプの人間が発生する。それが私だ。

 


相手に対して常にマウントを取り続ける為には相手よりも情報量を多く仕入れておく必要がある。例えば、アイドルマスターが好きだというのならば、全ての楽曲を聴き、全てのゲームをプレイし、全てのラジオを聴き、全てのライブに参加することが必要となる。まぁ、そんなことは不可能・・・・・・とは言わないが、とてつもない労力を払うことになる。そして、その情報量こそが「愛」だという認識にたち、それらを体現することに時間とコストを掛けるのである。

 


一時期の私はそのようなことをしていた。

「好きだから」ではなく、「好きを証明するために」物事の細部まで知ろうとしていたのである。そして、そのことに私はとても疲れてしまったのだ。マウントを取ろうとするのがオタクだと言ってしまえばそれまでなのだが。

 


だから、私は好きを表明しない。少なくともレッテルという範囲では。

 


ゲームが好きだとは言わないし、アニメが好きだとは言わないし、ラノベが好きだとも言わない。ただ、私が好きになったものがそれらに属していたのだと私は言い続ける。お前のための言葉など存在しないのだと。

友達について

 


女を羨む時がある。

それは、友人という間柄について考える時だ。

 


男性同士の友人は度が過ぎれば気持ち悪いが、女性同士の友人は度が過ぎても気持ちが悪くない。そんな気がしているのである。

 


女性同士がいちゃいちゃではなく、仲良くしている作品は2次元上には氾濫している。それの何がうらやましいかというと、ただ一人の友人がいればそれで救われるのではないか、という視点である。男同士がただ一人の友人と遊んだりしているとそれはいつかのホモとなる・・・なぜ、社会はそうして男性は女性と、女性は男性と、といったように、すぐに恋愛感情へと昇華させようとするのであろうか。

 


一定のジャンルとして確立しつつあるTS(トランスセクシャル)とはこれは似たような部分がある。あくまで一部であり、全部ではない。

 


TSの病は大きく3つに分類される。

①イヤな顔されながらおパンツをみせて欲しいの高度を上げたもの。=それはつまり征服欲。

②ただ単に犯されたい。それはつまり被虐心

③愛されたい・愛したいという欲望=それはつまり愛欲

 


①~②は単なる性欲の類いの話であるので問題は無い?のであるが、③は愛したい・愛されたいという欲望である。裏を返せば、今の自分では誰も愛すことはできないし、愛されることもあり得ない、という思想から生まれているのである。

 


③とはつまり、自己の否定なのである。

言ってしまえば、「異世界転生もの」と同じような物なのだ。

異世界転生が「××しただけだが?」という自分の常識と異世界の常識のギャップでマウントを取る野に対し、TS物は「あっ、そっか・・・今の俺は美少女だったのか・・・」という男性の意識がもたらす無知シチュエーションが男性を虜にする様でマウントを取っていく。その果てで、メチャクチャに愛されたり、かわいそうな男子を愛してみたりするのである。他人を自身の行動でコントロールしてみたりする果てで、相手に自分をコントロールされてみたりする・・・・・・みたいなことをしたいというわけだ。

 


有り体に言ってしまえば、「他人に影響を与えたい」というものと同じなのだろう。今の自分が積みセーブだからリセットしたいという訳だ。氾濫するなろう小説はそうした閉塞感に対する処方箋?・・・ではないな。えーと、痛み止めみたいなもので、人によってその種類がTSだったり異世界だったりなんだったりする訳なのである。

 


話がそれたので、元に戻す。

 


男性と男性が仲良くすれば薔薇が咲き、

女性と女性が仲良くすれば百合が咲く。

 


そのことについては否定するつもりはないが、別段男性と男性を特別視する必要も女性と女性を特別視する必要もないのだと思っていて、ただ単に、好きになった人がその人だった、で良いのではないかと思う。男性だから好きになった訳でも女性だから好きになった訳でも無いはずだから。

 


多分、それが私の違和感だ。

男性と女性がお酒を飲めばセックスに至る。

それが社会通念というものらしく、それに私という人間も囚われてしまっているらしい。

他人との関わり合い、特に女性との関わり合いに対して消極的なのはそれが原因なのだろう。男性と女性の遊びにはどうしても「意味」がつきすぎてしまう。だから、イヤなのだ。思い返せば、学生の時もそれが嫌いで孤立した記憶がある。

 


中学生の頃はよく友人として女性とも話していた記憶があるが、ある日を境に「××くんって○○ちゃんのこと好きなのー?」となったことがあった。そこから女性と話すことはなくなり、大学生の時もゼミナールで似たようなことが発生し女性と話すことがイヤになったのだ。社会人になると自分よりも年上と話す機会の方が多くなり・・・・・・その話はまた今度にしよう。

 


で、だ。

何が言いたかったのかというと。

どれだけ仲良くしても許される間柄が、

ホモやレズの概念によって駆逐されつつある。

もちろんそれは社会の眼を気にしなければ良いという話なのであるが、それほど私は強くない。

ただ単に、一人の友達が欲しかっただけなのだ。

それが仲良くしていく内に恋愛感情が発生する、あるいは恋愛感情として取り上げられるのが苦痛で仕方が無かったのだ。

 


恋愛関係の介在しない、発生のしない空間。

それが私のTRUE ENDのような気がする。

 


もしかすると、そういう風に一緒に行動したい相手のことを恋人というのかもしれないが。