huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

選択肢の無い迷路の中で

 

 

どうして世の中には選択肢が現れてくれないのでしょうか。ギャルゲーやエロゲーのように選択肢が現れてくれればもっと上手くやっていけるのに、そう思ったことは無いでしょうか。残念なことに現実にはそういった便利な選択肢はありません。無限に等しい選択肢の中からよりベターなものを選択する、もしくは想像しなくてはなりません。その上、不確実な環境がその時々の最適解を霧の中に隠していきます。掴んだはずの最善手が最悪手にもなり得るのが現実というクソゲーだったりします。

どうしてそのようなことが起きてしまうのでしょうか。一番大きい理由は人間社会の“不確実性”にあります。ゲームの世界では条件が設定されています。最近では自由度の高いモノも増えてきていますが、その根っこにあるのは確立したルールです。こうした規律のおかげで、ゲームの世界ではルールに従い物語を進めることができるのです。その分、選択できる世界は狭まっています。

チェスでも将棋でもなんでも良いのですが、ゲームの世界では、ルールに従って物事が進められます。そのため、その時々にキチンと考えていけば「悪手」を打つことは減らすことができます。しかし、現実の世界では、最善手を打っていても攻守逆転やリセットや、二回攻撃なんて言ったふうにゲームのルールを超えた不確実性が襲ってきます。そんな状況では“常に最善でいる”ことは困難であり、不可能であるといえるでしょう。

こんなことはアリエナイなんて言うかもしれませんが、実際に起こっている事でもあります。これまで最善であったことが、たった一つの開発(イノベーション)で競争の軸がズレて劣勢に追い込まれることは少なくありません。また、ミクロで見ると最善であっても、マクロな視点から見ると、随分とアホらしいことをしている、なんてこともあるでしょう。

 

前提が間違っている問題で正しい解答なんて導き出せる道理が無い。僕は間違えず、正解ばかりを選んできたつもりだが、そんなのは世界にとっては、水が高きから低きに流れるが如しで、水の一流一流などどうでもよくて、だから、そこには正解も間違いも、そもそも問題自体がなくて――僕は今まで、自分を特に幸せだとも、不幸せだとも思ってこなかったが……選んでも選んでも選んでも選んでも、世界がこんななら、幸せになんかなれるわけがない。安心なんて、できるわけがない

きみとぼくの壊れた世界 p280

きみとぼくの壊れた世界 (講談社ノベルス)

きみとぼくの壊れた世界 (講談社ノベルス)

 

 

櫃内様刻の独白から引用させてもらった。気分としてはこれこそピッタリとくる。

前提が間違っていたら正答は出ない、正解も間違いもそもそも問題もない。

世界に対するどうしようもない無力感と諦め。そして、世界に対して期待をしなくなり、自身にも期待を向けられなくなる。

 

本当に僕らのいる世界は“選択肢の無い迷路”である。

私達が迷路だと思い、選択してきた道もすべては錯覚だった。

迷路なんてものは最初っからなくて、目の前に広がるの“闇“だった。

 

 

だから、何事にも期待せず、無力感を抱いて溺死しろ。

 

 

なんてことは言いません。

現実は確かに、選択肢の無い迷路ではあるけれど、救いがないことには繋がらない。

 

それが幸せかどうかは別にすると、社会で成功する方法(失敗しない方法)はある。

学校や塾、ゼミナールなんかでいわれるようなことで全て最善を出していけば、概ね他人からみた幸せを実現できたりするだろう。もちろんこの場合は、勉強から体験まで広く望むとは別に要求に答え続けることになる。そうすれば、社会で成功した人として見てもらえるだろう。しかし、多くの人はこのように生きられない。誰の要求であってもそれに、応えつづけるなんてのは常人のそれではない。

一直線に並べられたレールではなく、曲がりくねっていつ脱線するか分からないようなレールを走るのは難しい。要求に応えつづけるという困難だけでなく、レールがいつまでも続くことを信じることや振り落される恐怖とも戦わなくてはならない。自分の人生が終了するまで。

なんのために生きているのか分からなくなります。だってここに私はいないから。

 

 

それでは、結論に入っていきます。

 

現実は“選択肢の無い迷路“である。

設問に対する条件やルールは明示されていない。

もしかすると設問そのものが間違っていることだってある。

その上、与えられる設問に応えることだけでは生きられない。

そんな、条件もルールも勝利条件も闇に包まれた現実というクソゲー

どうやって生きていったらよいのだろうか。

 

 

 

自分で設問を作り上げること

自分の世界を創りあげること

それしかないだろう。

 

 

 

残念なことに、人間には知性があり、理性があり、自我がある。本能しかなければ、このようなことは悩まずに済んだのだろう。“種の保存”そのためだけに生きることができたのだろう。

加えて残酷なことに、“生きがい”ってやつは自分で見つけなくちゃならない。世界はもちろん、先生や友達だって与えてくれないだろう。

それなのに、自分の周りは真っ暗で、何をしたらいいのか、いや何が出来るのかすらも分からない。

 

それでも、“生きがい”が見つかる様にできているのが社会の優しさだ。

学校での勉強や、友人との付き合い、先生や先輩、こういった学習や人間関係っていうのは、自分の周りを明るく照らしてくれる。勉強をすればするほど、自分の世界は広がっていく。誰かと繋がるたびにその人の分だけ世界が広がっていく。

すると、今まで何にもないように見えた世界が変わって見えてくる。気になることややりたいことが見えてくる。ひょっとすると、生きがいや大切なモノだって見つかるだろう。ただ、今までは見えていなかっただけだ。

ここで、間違えてはいけないのが、「他の誰でもなく、自分のために生きる」ということである。自身を勘定に入れなければいつまでたっても報われない。誰かのために生きるなんていう生き方は歪だ。「○○が望んでいるように生きる」「○○の幸せのために」それが、自分が立てた設問としてでなければ、誰も幸せになれない。自身をすり減らして期待に応えつづけても、いつか自分で自分を殺すことになる。もしくは、どこかで壊れて使い物にならなくなり捨てられる。

 

 

最後に、「この選択が正しかったかを判断するのは未来の自分だということ」を忘れないでほしい。周りから失敗だなんだと言われても、将来からみたら正しい選択だったということは往々にしてある。芸能人が「あの時失敗してなかったら今の私はいない」なんて言うやつだ。だから、その時々の失敗に一喜一憂するだけでなく、迷みながらも進んでいってほしく思う。若者は。