huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

好きの言語化

 

 

少し前まで、「好き」には「原因」があると考えていました。

私が千早を好きなのはクーデレだからだし、神林長平が好きなのはSFだからだし、アニメが好きなのは・・・・

 

でも、本当は違っていたのかな、と思います。

千早を好きなのは千早だからとしか言いようがありません。

いくらでも理由を付け加えることは可能ですが、好きという気持ちを他の何かで説明することって本当は違うのだと思います。

 

もし、こんな風に好きの原因を考え続けていると、おかしなことになってきます。

 

千早が貧乳だから好きだ。

千早が巨乳になった。

そんな千早は嫌いだ。

 

そんなことは無いでしょう。

どや顔で面倒くさい千早が目に浮かびます。カワイイ

 

このように、“好き“を分析して、属性別に分けてしまったりすると、その属性があれば好きになり、そうでなければ好きでなくなったりします。属性はあくまでも好きの内部に包括されるものであって、属性が好きを包括するのではありません。その逆はあってはならないのです。

 

さて、

なんでこんな話をしたかというと、最近になって「好き」に関して考えさせられる出来事にいくつかぶつかったからです。

これまでは“好き”の理由を探したりしていましたし、属性が好きを包括していた時期もあります。そして、このことは言葉にしなければ忘れてしまうことでもあると感じています。

言葉でもって“好き”ということについて考えていきたいと思います。

 

 

きみとぼくの壊れた世界―allo,toi,toi

上述した“好き”についての話はこの二つから持ってきました。

何度も紹介した「きみとぼくの壊れた世界」のあとがきと、長谷敏司さんの短編「allo,toi,toi」この二つがリンクして、“好き”について考え始めました。

 

そうなった人間がどうするかといえば『分析』を始めます。自分が『面白い』と感じた『これ』はどうして面白かったのか。どういう材料が入っていればそれが『面白い』と認識できるのか。理論に頼ってなんとかその『面白い』を失わないように『喪失』しないようにと足場を固めようとするのです。まあ言うまでもありませんがどんな対象にしたって分析を始めてしまえばソレマデです。『これはどうして面白いのか』を考えれば『こうでなければ面白くない』『こうでないと駄目だ』とか『こうでさえあれば何でも面白い』とか言い出し、結局、彼に残るのは、喪失感でもない、ただの喪失。

きみとぼくの壊れた世界 あとがき p294-p295

 

きみとぼくの壊れた世界 (講談社ノベルス)

きみとぼくの壊れた世界 (講談社ノベルス)

 

 

 

これが先ほどの述べた“好き“を『分析』し続けた人間の末路になってしまうのではないかと思います。本来衝動的なものである”好き“を条件づけた行動にするのは間違っているのでしょう。そうした”好き”に対する思い込みはその人を壊すだけでなく、その対象を含めた世界までも破壊しかねません。

 

そして、「allo,toi,toi」では

 

「覚えてる。『人間は、ケーキが好きだから、それは甘い』の人だ」

「ふたつ並んだ記述を、そうして原因と結果の関係だと考えるのは、記憶と習慣からくる間違いだよ。結びつけるにしてもせめて、『人間は、甘いものが好きだから、脳が甘味に反応する器質を持っている』くらいじゃないかな」

                                                                                           My Humanity  allo,toi,toi p78 

 

 

My Humanity (ハヤカワ文庫JA)

My Humanity (ハヤカワ文庫JA)

 

 

この「ふたつ並んだ記述を、そうして原因と結果の関係だと考える」というのが、先ほどの話とも関連してくる。

先の例を利用すると

 

千早が好き

貧乳が好き

貧乳だから千早が好き

 

みたいなことになるわけです。こうしてみると、おかしさが際立つでしょうか。

同時にふたつの物事が刺激されるとそれらを結びつけて考えてしまう、という話はよくあるもので、ライトジーンの遺産においてもTVが似たようなことを言われています。

では、どうしてこのようなことが起こってしまうのでしょうか。

 

◆好きは不定形の箱<ブラックボックス

 

“好意”を始めとした人間の感情は曖昧な枠組みでできあがっているものです。

本来関係の無いことまでも取り違えて感情と結びつけてしまいます。

そのため、“好意”という感情を取り出そうとすると、様々なものが引っ掛かってきます。

ケーキなら、甘いから、白いから、角ばっているからなんていったものです。

そうすると、純粋な感情の結晶に余分な贅肉がついたり、削られ過ぎたりしてどうしても元々あったものと同じものは取り出せなくなります。

 

そしてそれは、人間が言葉を用いるからということも原因になっています。

 

◆どうして好きを言葉にするのか

本来ならば、“好き”は“好き”であって、それ以外の何物でもありません。

「好きだから、好きなの!」っていうのが理想的なんじゃないかと思っています。

しかし、そう簡単にいかないのが面倒な所です。

 

「どこが好きなの?」と聞き返されるのが関の山です。

なぜなら、物事に理由を求めたがるのが人間というものだからです。理由があると安心できる、という人は少なくないでしょう。理由が無いとそれにどう答えていいか困ってしまったり、不安になったりしてしまいます。地に足が着いていない気になるのでしょうか。

不安だから言葉というカタチにして安心を求めるわけです。

 

言葉にすると、カタチにすると、純粋な想いからは遠ざかってしまいます。

けれど、確かなものとして感じられ、思い出すこともできるようになる。

カタチにすることで減るモノもあるけれど、そうでないものもあるものです。

 

◆“好き”との付き合いかた

“好き”についてあーだこーだと考え始めると、どうでもいいことから大切なことまで、全部が混ざり合って、面倒なことになってしまいます。

 

“好き”という純粋な想いを変な方向に捻じ曲げてしまったり、酷く狭量なモノにしてしまうこともあります。

 

人間自体が曖昧で、感情は不定形の箱<ブラックボックス>に包まれているのだからそうした錯覚も当然のことです。

 

けれど、好きは好きでしかない、ということを忘れなければ、酷い取り違いをすることは少なくなると思います。好きなモノを嫌いになったり、嫌いなモノを好きだと思い込んだりすることは減るはずです。自分が最初に感じた想いは嘘ではないのだから。

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