コンテンツに貴賤は無い
A「CLANNADは人生」
B「はっ、エロゲが人生?種馬になることが君の幸福だってのかい?人生について知りたいならもっと深く、深遠な、哲学書や古典作品をだね・・・」
A「ぐぬぬ・・・・」
智代アフター~It's a Wonderful Life~CS Edition
- 出版社/メーカー: プロトタイプ
- 発売日: 2009/03/19
- メディア: Video Game
- 購入: 8人 クリック: 71回
- この商品を含むブログ (31件) を見る
智代ちゃんペロペロ
ゲームや漫画ってどうしても、古典小説とかと比べると、低く見られていたりします。
ライトノベルやケータイ小説レベルになると、人によっては底辺レベルに見られたりします。
私の体験談としては、ライトジーンの遺産(ソノラマ文庫版)を読んでいたら意識高い知人に鼻で笑われたぐらいのものです。
一般的な認識としてはこんな感じではないでしょうか。
最近では、アニメの市民権はほぼ確立してきている。
ラノベはアニメスキーの人にも知られるようになってきた。
ケータイ小説発の作品の書籍化やアニメ化が相次いだこともあり、彼らの評価も変わるだろう。
どうして同じコンテンツでありながらも差が生まれてしまったのだろうか。
何故、私の好きなものばかりが下へ下へと押しやられていってしまったのか。
理由をいくつか考えてみました。
1.これまで低く見られてきたから
2.露出される面
3.難しさを崇める性質
この三つを中心に見ていきたいと思います。
◆これまで低く見られてきたから
1つは、アニメ・漫画に対する認識である。
「漫画やアニメは子供のモノ!大人がやるようなものじゃない」
こういったコンテンツは元来、子供が楽しむものであった。
絵本を思い起こすと分かりやすいだろう。教育や道徳の側面を持った子供に向けた作品がアニメや漫画としてあったように思う。
私の親の親世代になると、親が漫画を手にするという場面を見ることはなかったのではないだろうか。つまり、私達の親世代は「大人が漫画を読む」という風景を当たり前のものとして獲得していない。だから、コンテンツに対する理解が薄いため、信頼のおける書籍を与えようとするのではないだろうか。
もう一つは、コンテンツとしての重み・信用の無さである。
「論語」という書籍が何度も何度もカタチを変えて出版されるように、現在「古典」として崇められているものはその有用性を「歴史」というカタチで保持している。
重版された書籍はそれだけ価値があると認められている証拠であり、またそれが長い年月の間に渡って行われているのだとしたら、その「価値」は確かな物だろう。
つまり、「古典」は長年にわたる重版というカタチで広く価値が認められているのである。
対して、アニメは再放送というカタチで、漫画は文庫化などの限られたものしか「再び」現れることは無い。何度も何度も目にするということが少ないのだ。(静岡県民はコロスケ、キャプ翼、こちかめループで一部市民権を獲得)
そのため、どうしてもアニメや漫画が一過性のものとして捉えられ、「どんどん新しく出てくるもの」として見られ、古典のように「深める」行為をされてこなかったのだ。
以上のように、アニメや漫画がコンテンツとして低く見られがちだということは逃れようのない事実だと思える。
近年は、「エバーは別」「わんぴまぢさいこう↑↑」といったように、各所で知名度や人気を挙げつつある。大人世代には「宇宙兄弟っていうのがあってだね・・・」なんて言う人も増えている。いつだか忘れたが、世にも奇妙な物語の一編でラノベが採用されていたこともあった。
少しずつ常識は変わりつつある。
◆露出される面
メディアが取り上げるのはどうしても「事件性」や「話題性」を伴ったものが多くなる。
「痛車」だったり、「犯罪事件」だったり一部の人にしかまだ馴染みのないようなものすら「これがオタクです!」と取り上げる。
電車男なんかもオタクのロールモデルを作り上げたひとつのきっかけになっているのではないだろうか。
これらは、少し前のことなんですけどね。
こうしたマイナスイメージがオタクに付随して回っていたのが何年前になるだろうか。
最近はこうしたイメージは減りつつあるものの、こうした認識のままでいる世代は少なくないだろう。
では、最近露出される面としては何があるだろうか。
「検索、検索ぅ~」「みんなで叶える・・・(シャンシャン」「ちょっと、TV前のあんた!・・・」
そうなんです。スマホアプリの可愛い女の子達なんです。
加えていうのなら、スマホでよく見られるエロ広告なんかもそうです。
つまるところ、オタクに対して「マンガの女の子が好き」「マンガの女の子と××したい」なんていう方向性が付けられたりします。それ自体に大きな間違いはないと思いますが、そこだけにフォーカスし他を切り捨てられると困ったことになります。
先の絵本の話で例えると、「絵本の物語が好き」「絵本の中の女の子が可愛い」と2つの要素を持っていても、他人は「絵本の女の子が好き」という風に解釈されうるということです。
その他には、オタクの人とリア充の間にあるのは外見の差です。
前者は見苦しく、後者は見ていられる、というものです。
単純にオタク=ダサい、っていうイメージがあるのも一つの原因だと思います。
こうした、人の目に触れる部分でアニメや漫画は不利な点が多々あるのです。
◆難しいものを崇める性質
「超訳~?そんなん読んでもダメダメ。やっぱ原書に当たらないとダメっしょ!?」
本当に、原書の価値を理解して読んでいる人はどれだけいるのでしょうか。
僕にはよく分からないけど、偉い人はみんな素晴らしいという。だから、僕も素晴らしいと思おう。
そんな気持ちで読んでいる人も少なくないと思います。
高校の辺りの私がそうでした。
意味もなく難しそうな本を手に取って頭良い人にみせかけたものです。
人間には、難しいものを素晴らしいものとしてしまう傾向があると私は考えています。
確かに、素晴らしいモノの中には難しいものが多くあります。哲学書なんかも面白い部分があるにもかかわらず、その難しさで倦厭されているところがあります。
けれど、間違えてはいけないのが「難しさ≠素晴らしさ」ということです。
これを間違えると「簡単=ゴミ」なんて風になってしまいます。
勉強は習熟度に応じて難易度を変えるのに、読書やコンテンツになると途端にハイレベルなものを崇めはじめる。
◆内的要因
ここまで、コンテンツに貴賤が付く「外的要因」について書いてきました。
もし、「オタクは犯罪予備軍」とか考えていた人が少しでも意識が変わったとしたら幸いです。
でも、一番の問題は「自分自身がコンテンツに貴賤を付けている」場合です。
自己実現が達成できずアニメに逃げたのに、アニメの所為でこんなところに堕ちてきたと考えてはいないでしょうか。
本当は好きなモノだったのに、「ダメなもの」として嫌いになろうとしてはいないでしょうか。
そういう人が、コンテンツを乏しめることで「卒業」をしようとしたりします。
忘れる為に一生懸命になってるうちは
まだ、ダメなんだからジタバタしてもしょうがないよ
でも、そういうのも認めたくないよね
相手を嫌いになることでどうにかしようとしてるんだろうけど
それって逆効果だよ
忘れるっていうのは本当に心からどうでもいい人になるっていうことだよ
そうなれば全部許せるし、いい思い出にだってなれるよ
イエスタデイをうたって Vol8
アニメを嫌いになることで、アニメが好きな自分を失くそうとしている。
アニメを乏しめているのは自分かもしれない。
そうやって、誤魔化してアニメを消しても空しさしか残らない。
その空虚な穴には別の何かが詰め込まれて、それでも合わなくて切り捨てて。
また何かを探していく.....
昔好きだったものがいつの間にかそれよりも好きなモノで覆われていく。
サッカーが好きだった自分がいて、それよりも漫画好きな自分がいて、それ以上にゲームが好きな自分がいる。
“好き”って感情は積み重ねで、元からある好きを消さないといけないものじゃない。
“好き”は間違いじゃない。
◆終わりに
私は価値っていうものがどこから見出されてもいいと思っています。
ほら、少し前にはやった書籍に「人生で大切なものは~」ってあるじゃないですか。あれって人によって「砂場」だったり「ドラクエ」だったりしますよね?
人生で大切な事は現実で見つけなくちゃいけない、なんてことはないんですよ。部活動でも学校でも、アニメでもゲームだって良いんです。ただ、その時身近にあったものから見つけ出しただけの話です。
だから、どんなコンテンツに価値を見出したっていいんです。
それは、その時それが自分の身近にあって、それを大切にしていたっていう証だから。
アニメに人生を見たことがない人は、それ以外に人生をみただけの話。
どっちが偉いとかそういうことじゃなくて、ただちょっと立場が違うだけ。
そういう体験をしてこれたかどうか、って違い。
ζ*'ヮ')ζ<だから、そんなことは気にせず楽しんでくれたら嬉しいかもですー!!
アイドルマスター 高槻やよい (1/8スケール PVC製塗装済み完成品)
- 出版社/メーカー: ファット・カンパニー
- 発売日: 2014/11/30
- メディア: おもちゃ&ホビー
- この商品を含むブログ (4件) を見る