huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

信じては裏切られ、信じては裏切られる

 

なら、何を信じたらいいのだろうか。

 

この世の中に唯一不変なものはありません。ですから、何かを依り代にしようと思っても、どこかでブレが生じ、いつかその依り代そのものを破壊してしまいます。

私達は、壊れた依り代に背を向けて新しい依り代を模索する。そして新たな依り代も使い潰してまた新しいモノへ。

 

信じた先には裏切りしかないのなら、私達は何を信じたらよいのだろうか。

 

 

◆虚構崇拝

現実に希望を見つけられなくなると、ヒトは虚構に救いを求める。

その場合の多くは“物語”であり、“キャラクター”であり、“別世界”である。

自分とは遠く離れて、自分のいない世界を夢想する。そこには必要のない“私“がいないのだから。

 

本来ならば、世界の裏側にあるものを見つめなければならないけれど、虚構にそれは必要ない。

 

虚構は常に気持ちのよい一面しか見せない。

いや、虚構の気持ちのよい一面しか見ないでも良い、とした方が正確だろう。

その世界は決して私を裏切らない。いつだって優しく、私は勇者でいられる。

 

 

そんなキモチノイイ世界である虚構を依り代にしても我々は破綻する。

それは、現実からの圧力とそれに耐えきれない個人のせいだ。

 

 

◆現実という圧力

現実というやつは想像しているよりもずっと強い圧力を持っている。

これの何が恐ろしいかというと、個人の認識・意識にすら働きかけてくるということだ。

楽しいモノしかなく、裏切ることのない世界であっても、それを信じ続けられなくなってしまう。

現実ってやつは本当に面倒だ。

 

その上、彼らは常に頭の片隅にいる。

どれだけ見ないようにしたところで、いつかは視界に入ってくる。

 

楽しい時ほど不安になる人は現実の圧に侵されている証拠です。

楽しいはずのゲームが、楽しいはずのパチンコが、楽しいはずのアニメが、そんなモノを楽しんでいるとふと思う。

 

本当にこれでいいのだろうか、と

 

こうなると、楽しい気分も一気に冷める。

むしろ、楽しい気分でいることが悪いことのように思えてくる。

無意識に、罰を与えるように、一日を過ごす。罪悪感に苛まれながら。

 

 

◆ヒトは変われるのか?

何者にもなれない私達に告げる。

ヒトは変われません。

 

私はどこまでいっても私だし、あなたはどこまでいってもあなたです。

どこか違う誰かになろうと思っても、誰かになり替わることなんてできません。

この世の中には、幻想入りも神隠しも、転生魔方陣も、転生トラックもありません。

 

 

どうしようもない自分の現実を生きるしかない。

 

 

◆自分の現実

じゃあ、私の現実はどこにあるのだろうか。

 

机の中?家の外?学校?職場?ネット?

どこを探してみても私がいるべき場所は無いのでしょうか。

 

エヴァでは「現実に帰れ」なんてのがテーマにあったらしいです。

どれだけ、漫画やアニメや小説を見たとしてもそこに私はいないから。

 

私は今いるココにしかいない。

何者でもなく、自分は自分でしかない。

私は私だ。

 

 

◆普通ってなんだっけ

こうして私として私を認識すると、自分を上のレベルに押し上げようと考える。

ひきこもりならば社会人に、と。場合によったりすると、社会人を通り越して“勝ち組”を志向したりする。

 

そうした考え方自体は間違いではない。

けれど、“普通“を下に見過ぎていないだろうか。

 

私が求めているものっていうのは本当に“普通”なんだろうか。

 

 

AURAで言われていたのは「みんな努力して普通になったんだ」っていうこと。

 

 

AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫)

AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫)

 

 

ここで今一度“普通”について定義し直すとすると

「社会(所属する集団)から、個人として認知され、認められること」とする。

 

学生でいう社会は“学校”であり、社会人でいう社会は“会社”である。

つまり、社会に属していないと“普通”を実感することが困難だということだ。

 

それで少しAURAについて話をさせてもらうと、主人公を含む何人かの少年・少女は「誰かから認められるために」私を改竄して「設定」を作り上げた。

特筆すべきものが無いと考えた学生が、分かりやすい「設定」に飛びつくのも訳はない。

手っ取り早い属性付けとして、厨二病という設定を付随させた。

 

本当は、ただ誰かと何かを共有したかっただけなのに。

普通に学生生活を送りたかっただけなのに、何もない自分に耐え切れず何者かになろうとした。

 

普通であるために、特別を手にしようとした。

普通のなり方が分からないから極端な手にでるしかなかった。

なんて無様。

 

◆急激なレベルアップという錯覚

基本的にははぐれメタル級の経験値は手に入らない。

そんなことが出来るのは、ラックがカンストしているか勇者の職を持つものだけだ。

大抵の人間は一歩一歩レベル上げしなくてはいけない。

 

 

ドラゴンクエスト メタリックモンスターズ ギャラリー はぐれメタル

ドラゴンクエスト メタリックモンスターズ ギャラリー はぐれメタル

 

 

 

けれど、こういった人間の頭にあるのは急激なレベルアップだけだ。

何かをすることによって、突然誰かに認めてもらえるようになる、そんな想い。

 

だから、AURAの人々は特別な自分を身に纏うことでレベルアップを図った。

現実に目を移すと、何かのキャラの成り替わり(マネ)もこれに入るだろう。

とにかく、今の自分が認められなくて、別の自分を用意したんだ。それもとびっきり強いやつを。

 

でも、それはレベルアップじゃない。

私達は誰かになろうとしてもなれない。どれだけマネをしてみても物足りない。

だって、彼らが積み重ねてきた経験値が無いのだから。

 

冴えない男がキョンのマネをしたって、ハルヒはやってこない。

どうやったって、うすら寒いだけだ。彼の上澄みだけを啜ろうというのだから。

 

◆経験値の壁

私達が馬鹿にしてきた“経験値”は膨大な重さになって圧し掛かってくる。

らんダンの武器に飲まれた少女に向けて言った言葉が思い起こされるようだ。

 

なんとなく過ごせてこれた人はこれを痛感した人は少なくないだろう。

ちょっとの努力である程度の結果が出せる人は、その果てで経験値の壁を実感する。

私はそれをスポーツでも、勉強でも実感した。

 

経験値は最初の内はたいしたことないが、ある線を超えると急激な成長を見せる。

これまで馬鹿にしてきた“基礎練習”なんかの差が痛いくらいに身に染みる。

 

だから、この“経験値の壁”は無かったことにすることもできないし、飛び越えていくこともできないのだ。

 

◆休止―これまでのまとめ―

 

劣等感に苛まされる人は、急激なレベルアップを求める。

それは、今の自分を否定し、どこか遠くにある別の自分を求めているからだ。

けれど、それは成功しない。自分は自分でしかなく、他の何者にもなれない。

そんな我々は自分の現実を生きるしかないのだ。

 

 

◆どうしようもない私のどうしようもない人生

それでいざ自分の現実を生きようと思っても、そのどうしようもなさに絶望してしまう。

それもそうだろう、これまでの間自分の現実ではなく他人の現実を生きてきたのだから、自分の現実が豊かに実っているはずはない。

 

アニメや漫画やゲームに没頭し続けていたとしたら“オタク”という称号を手にしているだろうし、引き籠っていたら“ひきこもり”の称号が付けられる。強制的に。

加えて言うのなら、みんなが挑んでいた共通クエストすらサボっていたのだから、そこで勝ち得ることのできた経験値や仲間何かもそぎ落とされている。

 

ないないづくしで笑えちゃいますね。

色んなところのレベルが低く、それを補えるコミュニティもなく、あるのはマイナスのレッテルだけ。

 

こうした現実を無視して“夢”や“目標”を立ててみる。

最初の内は頑張るかもしれないが、少ししたらその空虚さに気が付く。

だって、何もないところから何も生み出せないから。

 

とある生徒会長がいいことを言っています。

「世界がつまらなくなったんじゃない、あなたがつまらなくなったのよ!」

 

 

 

目標の立て方には二種類あって、やりたいことを目標にするのと、今の手持ちから出来ることを考えるものの二種類です。

どちらにしても結局は今の手持ちとの擦り合わせが必要になります。

何にも持っていない人は常に自分にない物を求めるしかなくなる。だから空虚。

 

目の前には、どうしようもない私のどうしようもない現実がただただ広がるだけ。

 

 

◆君と私の生存戦略

どうしようもない現実で生きる君と私の生存戦略

 

大切なのは「きっかけ」だけ。

ちょっとの「勇気」とちょっとの「思い込み」があれば世界は変わる。

それで何かに気が付けるのかどうか。

 

佐藤君に岬ちゃんがいたように、良子に一郎がいたように。

何かが君と私の世界を拡張してくれる。

それは、アニメでもゲームでも漫画でも、小説でも、もちろん現実の人間であってもいい。

けれど、現実から離れ虚構に生きてきた人は“現実の圧“を利用する方が容易である。

 

ラノベや、ジュブナイル小説が未知との出会いから世界を拡張するように、自分の半径数メートルほどの世界を拡張してくれるものは“外の世界”からやってくる。

 

それに気が付けるような準備と一歩踏み出して手を取る勇気を持つことが大切だ。

誰かの手を掴むことが出来たら、その分世界は拡張される。

どうしようもない私の世界に光がさす。

 

 

◆環境を変えることは“逃げ”であり、“罪悪”か?

「今の環境が~とか言うやつは甘え」「環境のせいにするやつは成長しない」

とか言われている。

けれど、本当にそうだろうか。

 

確かに、他の場所で出来るなら今の場所でもできるだろう、ということや、環境の問題は気持ちの問題、という面があることはいなめない。個人のやる気やモチベーション次第で改善できるというのも間違いではないのだろう。

 

けれど、行動に移す際のハードルの高さが異なる。

 

例えば「※」なんてのが分かりやすいだろうか。

他人が持ったイメージを払拭するには多大な労力を支払う必要がある。

そのため、イメージとはかけ離れた行動を取るのには「勇気」が必要になる。

そしてなによりも、そういうイメージを持たれているという思いが行動の足かせになる。

自分のキャラじゃないから、というやつだ。

 

その点、環境をリセットすると自分が“キャラ”に縛られることなく行動できるようになり、動きやすくなる。

 

だから、私としては環境を変えなくてはいけない、と考えるほどに思い詰めているのなら変えるべきだと思っている。

“わたしらしさ“が私を潰してしまう前に。

 

 

◆世界を革命するために

私の世界は今、革命されているかというと疑問が残る。

でも昔の世界とは異なっているという確信がある。

それも、望んでいる方向にちょっとずつ。

 

 

「小さな革命からこなしていかなきゃ、大きな革命なんて起こせやしないぜ」

 

青年は荒野をめざす (文春文庫)

青年は荒野をめざす (文春文庫)

 

 

 

今まで0点だった人間が急に100点を取れる訳がない。(ドラえもん秘密道具を除く)

 

だから、小さいことから少しずつ変えていく。

自分に必要なことを考えて、行動していく。

その時に、他人を巻き込んでやれればラッキーだ。

 

そうして行動していけば、知らない世界が待っている。

 

◆終わりに

久しぶりに「NHKにようこそ!」を読んで見ると佐藤君の気持ちがダイレクトに流れ込んでくるようで辛くて辛くてしょうがない。救いを求めて次のページを捲るものの信じては裏切られ信じては裏切られ裏切って、なーんにも信じる気力がなくなってきます。

中村雄二郎氏の著書でも似たようなことが書いてあって、考えずに鵜呑みにして信じて裏切られ、結果的に大元を憎むようになるとのことでした。

これの問題ってその対象に目を瞑って「信じるよ!」ということにある。ロクに考えずに理想を押しつけて、勝手に裏切られるのが悪いんです。

さらに何が辛いのかっていうと、最終巻がないということ。岬ちゃんと佐藤君はどうなるのやら。明日買うことにします。

それで今回は二人とその周辺の人たちを見ていて引き起こされた感情を書き連ねてみました。私の根っこを抉るような作品でもあったな、と思います。

そして、結局私は誰かと手を取り合えるだけの世界が欲しかったのだなとしみじみ思う。だからこんな風に文章を書くのかもしれません。拡張された世界の先に誰がいるのでしょうか。

 

貴方の世界の果てで待っています。

 

少女革命ウテナ 薔薇の刻印 チャームキャラピン ビビッドピンク

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