分かる気が無いなら触れるな!!
久しぶりにカタカタとキーボードを鳴らしております。
最近は、色々と考えていたことをノートに書きつけておりました。インターネットの記事であったり、アニメや漫画、小説、ラノベなどなど、プラスして他人から与えられる色んなことが私の頭の中でごちゃごちゃと踊りくねっており、それを言葉にしようと奮闘していた次第です。
それで、今日はその一つについて書こうと思っています。
タイトルにも書いた
「分かる気が無いのなら触れるな!!」
これが今日のテーマです。
結論を先に言うと、そんなことはなかった。
コンテンツ
◆理解しようとしない人たち
◆愛するモノを守るために
◆私の雑感
◆理解しようとしない人たち
私なんかは良くあるのですが、好きなモノが他人にとっては受け入れられない・理解できないという状況があります。理解する気があるのなら良いのですが、酷い場合は理解する気がない場合もあります。好きな人からしたらたまったことではありません。
私の好きなアニメ系のコンテンツで、例を出してみました。
ケース1
「禁書って、熱膨張(笑)とか理論がガバガバなんでしょ?うはっwつまんねーはw」
禁書がどういう物語であるのかは関係なく、ただどこかで聞き及んだフレーズを使って馬鹿にしたいということです。大抵の場合、この後に「リアリティーなさすぎw、ウケるw」と繋がります。ウケねぇよ。
好きな人からしたらたまったもんじゃないですよね。
確かにそうなのかもしれないけれどそうじゃないんだよ。
似たような例だと、
・「まどかってステマアニメしょw?ないわー」
・「あらあら(笑)マスコミに踊らされてらぁ(爆)」
なんでこんな風になるかっていうと、単純にコンテンツに興味がないわけです。
ですから、こういった人に対して、「いや違うんだ、さやかちゃんはっ…」と物語の良さを伝えてみたところで響くわけがないんです。興味が無いんだから。
手を変えて、「作品の一部の否定が全体がつまらないことの証明にはならない」なんてロジックを組み立てて提示しても意味が無いんです。
それでも、良さを伝え続けると、「キンモー(笑)」となって帰ってきます。ちくせう。
こういう人たちは、中身についてはどうでもよくて、それが会話の種になるということが大切なんです。
「話」がしたいのではなく、「会話」がしたい。
ちょっとだけニュアンスが違うんです。
後者の場合は、自分の興味から外れていても構わない。一緒に盛り上がっている、というカタチを求めるわけです。
うーん。どうしようもない。
会話のため、となると難しい。だって、俺はこのアニメのここが好きなんだぜ、ペロペロなんて性癖にも似たナニカを誰かに話すことに抵抗がある人もいるだろう。そして、それが共感されるかというとそうでもない。容易に共感できるのは、客観的な事実や、話題となっていること、一次的な感情(すげー、さやかちゃん可愛いーとか)ぐらいなもの。
それ以上を会話に求めるのってなかなか難しい。だから、どうしようもない。
それに自分だって、他のコンテンツで似たようなことをするんだから、自分のだけはダメ、なんてしてはダメだろう。
ケース2
「アニメはダメ、絶対。だって、気持ちが悪いもの。」
これは。生理的な嫌悪で拒絶しているケースです。これもどうしようもない。
たとえ、世にも奇妙な物語の1節にラノベ入ってるよ、とか君が好きなドラマは漫画が原作だよ、とかいっても意味が無いんです。「それは別!」と言われます。
ケース1と異なるのは、理解する気がないというよりも、理解したくないというやつです。
そういう人には近づけてあげないのがいいと思います。
ドラえもんにネズミを好きになれ、っていうようなもんだから。
ケース3
A:「ゼロの使い魔良いよな。」
B:「くぎゅううううううううう」
A:「フレイムヘイズとか、どうかな?」
B:「くぎゅううううううううううううううう」
A:「亜美ちゃんどうすんのかなぁ」
B:「くぎゅうう」
Bは学生時代の私です。今は伊織ちゃんが好きです。でも、千早ちゃんはもっと好きです。
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それで、このケースはなにかっていうと、作品の外側に興味が向いているということです。
ルイズはくぎゅうで、シャナもくぎゅうで、大河もくぎゅう。みんな同じわけです。本当は違うんですけど、同一視してしまうわけです。
この状況が悪化すると、「○○さんが出ているからこの作品はネ申!」となるわけです。好きな声優さんが出ているアニメはどんな内容であっても神なんです。あながち間違っていないかもしれませんが、私は違和感があります。
似たようなものだと、この監督だから良い・悪い、この脚本家だとダメ・良いなんていったのがあります。(最近だと、twitterみたらこの人は嫌いだった。だから、この人が造ったものはつまらないという感じ)
作品におけるメタ情報が中身を凌駕してしまっては本末転倒ではないでしょうか。
本来指標であるはずのメタ情報が中身の良し悪しそのものになっている。
露出が多くなっていることも原因に挙げられますが、それにしても取り違えてしまうことが多くなったのかなぁと思います。
◆愛するモノを守るために
上述したような人たちが私の好きなモノを齧ってみては吐き捨て、ラベルを見ては捨てたりするわけです。
気持ち的には、量産型に啄まれる二号機といった感じ。もうやめてくれ・・・
・使い勝手よりも誰が使っているのかで決まる商品。(メタ情報)
・一般的なイメージからの拒絶(生理的拒絶)
・話題性に便乗する人たち(会話のツール)
このように、アニメに限った話では無くて、どういったコンテンツにもそういった人たちは現れます。
アニメなどの場合は、感性的に楽しむ人と話題性で楽しむ人がわかれて存在しているためこれが顕著に見えているわけです。
愛すべきコンテンツを守るためにはどうしたらよいのだろうか。
方法は2つある。
1.コンテンツを愛せないものを排除する。
コンテンツを愛することのできない人物を悪と断じて切って捨てる。
そのコンテンツを愛せる人だけがそのセカイに残れば、コンテンツは愛で満たされる。
嫌いなものを切り捨て、排除すれば、誰もが笑えるセカイの始まりだ。
間違った考え方なのだろう。
コンテンツを愛する人間が馬鹿をみる世界のほうが間違ってはいないだろうか。
もし、セカイが間違っているのなら、間違っている私の方が本当は正しいのではないか。
歪んだセカイに甘んじて生き続ける人間の方が間違っている。
まぁ、実際のところすべての人間を切り捨てていくことはできない。
もし、出来たとしてもその先にあるのは孤独だけだろう。同じコンテンツを愛する人でもカップリングが違うだけで争いが起こるのだ。「私が思う正しいコンテンツ像」が万人に受け入れられることはない。
じゃあどうやって、これを達成するかというと、他人を排するしかない。
正確に言うと、自分の殻に閉じこもりなさい、ということだ。
他人が許せないなら他人と関わらなければいい。
自分のセカイに他人を入れるから諍いが起こるんだ。
自分しかいなければ誰かと何かを共有する必要もなくなり、傷つくことはなくなるだろう。
他人を認められないなら他人を失くしてしまえばいい。簡単な話だ。
2.コンテンツを広める
もう一つの手法としては、正しくコンテンツを普及させることである。
数年前と比べると「オタク」の市民権は随分と拡大したように思える。昔は、チェックシャツの変態集団としての認識が強かったかもしれないが、現在ではファッション系のオタクから何から何まで広く存在している。(サッカー少年だった友人から「澪ちゃんいいよな」と言われたのは記憶に新しい)流石に、「オタクだぜ?あびゃー」と喧伝する人は見当たらないが、「実は見てるんすよね」と他人に言うことが出来るくらいには市民権を得たと思える。
似たような例だと「ケータイ小説」が挙げられるだろう。ケータイ小説を有名にした「恋空」の時代から考えると随分と立ち位置が変わってきた。すいーつ(笑)ご用達、小・中学生が集まるインターネッツなどと、ケータイ小説はこれまではものすごく馬鹿にされてきた。「文法が滅茶苦茶ね。何故いつも倒置法なの?『てにをは』の使い方知ってる?小学校で習わなかった?」などと散々な言われようであった。しかし、王様ゲーム(間違っていたら申し訳ない)を始めにいくつかの作品は書籍化されているし、だんまち、さすおに、あとは何だろうかBグループ?…とにかく、なろう作品のいくつかも書籍化からのアニメ化・漫画化しているのである。わなびのたまり場だと思っていたんですけどね。感慨深いものがあります。
「オタク?なろう?あぁ、知ってるよ。クソのことだろ?(どやぁ)」なんて言われていたモノでも、時が移ろえば「流石だろ兄者」なんて風に変わるわけです。
地道な布教作業とメディアの動向が合致しさえすればコンテンツを取り巻く環境は変わりえます。最近では、インターネットを通じてそうした活動を行いやすい環境が出来ているということに加えて、「多様性」なんて言葉に代表されるようにマイナーが認められやすい空気が醸成されています。小さな活動が小さな革命を起こし、それがいつしかセカイすらも改革し得るのです。
このやり方は昔から変わっていません。
本読みが、好きな作家を広めようと友人に本を貸し与えてみたり、友人が家にいるときに好きな音楽をかけてみたり、そんな活動で仲間(いや、同志としましょう)が増えるわけです。目に見えにくい変化でもそれは確かなもので、いつしか大きな流れを作っていきます。
ですから、私は後者の方法を用いるのが良いのではないかと考えています。
◆私の雑感
とまぁ、ここまでは事実確認みたいなものです。
各個人に好き嫌いがあるということは、自分の好きなモノを嫌う人だっている。
好きなモノが同じでも愛し方が違うかもしれない。
ある人は、こういう愛し方をしなくてはダメだという。
「SF好きなら1000冊は読んだのか?」と愛の証としての量を求めるかもしれない。
「この作品について語ってみろ」と作品への思いの丈を愛の証とするかもしれない。
「作品の背景は知ってるのか?」と作品に留まらない想いを愛の証とするかもしれない。
私個人としては、どのようなやり方で愛していても嬉しいのかなぁと思います。
ほら、高木社長がいいこと言ってますよ?
「我が765プロに所属するプロデューサー諸君はみんな仲間同士だ。プロデュース枚数は関係ない。目指すところは皆同じだ。愛すべき765プロ所属の女の子たちを輝かせたい。ただそれだけなんだ。我が765プロの門を叩いてから、長い年月を重ねている者達もいるだろう。最近になり事務所の門を叩いた者達もいるだろう。だが、プロデュース年月や出勤状況やプロデューサーランクに関わらず、平等に、みんなで、これからもまだまだ先の未来、トップアイドルプロデュースを目指そうではないか。」
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これじゃなきゃダメなんだ、と信念のある人もいると思います。
そういう人がコアなコンテンツを作り上げるのかもしれません。ですから、その在り方を否定するつもりはサラサラありません。むしろ応援します。そういう人の方が他人の在り方を許容していますから。
ただ、「こうじゃなきゃダメなんだよ!」と喧伝する人は否定します。
在り方を自分に求めるのではなく、他者に求める人は往々にして自身の在り方に疑問を持っています。
「これが正しいんだから、みんなやってくれ!そうじゃなきゃ安心できない!自分が正しいと思えない!」
こういう人は自分の愛し方よりも自分が正しいことを求める。
ですから、客観的な事実(メタ情報)や売上・販売数などを拠り所にします。
私は、そういう人をみると「愛し方を知らないのだろう」と考えます。
作品について“知る”ことが、作品を“理解”することではありません。
もちろん、作品について知っているから愛しているというわけでもありません。
作品が好きならそういった情報も入ってくるでしょう。しかし、その記号は逆には向かわない。好きだから情報が入ってくる。情報を持っているから好き。どっちが正しいと思いますか?
でも、愛の“カタチ”の模倣(トレース)はいつか、愛の“意味”に到達するのだろうか。
同じ人間ならば、感覚を共有できる瞬間は存在するのだと私は思います。
カタチを真似ただけのニセモノで終わらないように気を付けたいものだ。
いつか、ホンモノを手に入れるその日まで。