物語世界に“人”はいるか?
物語にも世界があるのなら
現実世界にいる必要もない
小説や漫画もそうだろうか、そういった類のモノに触れていて議題に挙がるのが、物語の世界に生きる人物の話だ。
・君の作品の登場人物には血が通っていない。
・なんつーかさ、リアリティが無いんだよね(笑)
とまぁ、物語に生きる人物にはリアリティが求められる。
所詮小説なんだから、と切って捨てることもできるだろう。
物語にセカイを見るかどうかは個人による、なんていう事もできる。
けれど、折角なので少し考えてみたい。
物語世界には“人”はいるのか。あるのは記号としてのキャラクターだけか。
コンテンツ
◆個性を塗りつぶされた登場人物
◆記号を押し付ける現実
◆世界を見に行こう
◆個性を塗りつぶされた登場人物
極端な例を出すと、「感情移入を容易にするために、主人公にはボイスも立ち絵もいれません」というやつ。主人公が個性バリバリでいると、読者(プレイヤー)が感情移入できずに置いてけぼりになってしまう、という理由で主人公は没個性キャラになったりします。
また、二次創作の小説に出てくるオリ主なるものや、なろうで見られるテンプレなどにもこうした主人公が現れます。筆者の「これまで過去に積み上げてきたものをすべてなかったことにして別の世界で俺TUEEEしたいやり直したい」という願望の表れか、“転生”というカタチをとって状況のリセットを図ろうとします。
製作者側の意図としてわざと個性を消される、というのが主人公にはありえます。
それに関して言うと、投影される立場にある主人公は仕方のないことかもしれません。
ただ、今回問題としているのは消されたのではなく、塗りつぶされた登場人物である。
何に塗りつぶされたのかというと、レッテルを始めとした“記号”である。
以前、メモ帳に書き込んでいた言葉に「トロフィー系ヒロイン」というのがある。
主人公のことを好きになるヒロインは主人公をより際立たせるものである必要がある。
学校で一番美しい、全国模試1位の秀才、剣道部主将、どんな肩書きであってもいい。
そうした優れた女性に好意を寄せられることで、“主人公は素晴らしい“ことの証明になるからだ。
そう、まるでトロフィーのように主人公に添えられる彼女たちのことは「トロフィー系ヒロイン」と称して良いだろう。
また、逆のヒロインは「踏み台系ヒロイン」と称するのはどうだろうか。
学校で苛められている少女、敵対組織で苦しむ女性、どんな肩書きであってもいい。
そうした可愛そうな彼女たちを救うことで“主人公は素晴らしい”ことの証明になる。
そう、まるで踏み台のように主人公の足元に添えられる彼女たちのことは「踏み台系ヒロイン」と称して良いだろう。
何がいいたいのかというと、登場人物が記号的に用いられているということだ。
彼女たちがどういった行動や言動をするのかには一切の興味が払われず、ただ彼女たちが持ちうる“記号”のみがセカイに求められるのだ。
だから、彼女たちが持っているであろう行動原理や信念なんてものは排除され、物語を進めるための役割を果たす自動人形(ドール)に成り下がる。
もっと、分かりやすくすると、エロ方面で考えるとよい。
ほら、キーワードでよくあるでしょ?「女教師」とか「OL」とか「生徒会長」とかそういったの。意味合い的には、女性というよりも権威を犯すといったイメージがある。そうしたレッテルを張ると、筆者と読者の間に容易に共通項を作り出すことができる。
クラスメイトや身近な人の方がエロスを感じる、というのは“現実の世界である”というだけでなく、レッテルを超えた“個人“を認識しているからではないでしょうか。
登場人物が物語を進める役割しか果たしていない。それも不自然なカタチで。
それもそのはず、彼女らは上っ面しか描かれない。彼女たちの想いのカタチさえあれば物語は進み得る。なんて無様な偽物なんだろうか。
◆記号を押し付ける現実
カタチのために付けられる“記号”
それは、誰かに伝えるためにセカイから切り取られた証
理解からは程遠い
「クラナド?あぁ、アレね。人生だろ?」
記号(≒レッテル)を押し付けるのは便利なモノです。
似たような環境で過ごす人の間ならば、容易に共通項を得ることが出来る。
例えば、彼女はツンデレだ。
その情報だけで、金髪ツインテールでお嬢様かな?なんていった風な認識が与えられる。
細かな部分での差異はあれど、大きく“在り方“を規定することが出来る。
こんな風に、人物に記号を押し付けることで共通項の獲得を容易になる。
でも、これは「分類分け」に過ぎない。
自分が持ち得ている認識の型に押し嵌めているだけに過ぎない。
理解からは程遠いものだ。
本来ならば、自分の持っているフレームワークと比較をしながら彼女を正しく認識していく必要がある。コンテンツに関しても同様だ。「○○に似ている」というとこで思考を止めてはいけない。
けれど、ここで多くの人は足を止めてしまう。
他人と共有するのに“記号”は便利すぎてしまう。
“記号”は力強く、それでいて分かりやすい。
クラナドは人生、その言葉だけであの作品を理解したような気になってしまう。
それだけの“意味”がこのフレーズには込められている。だから、このフレーズだけで、「今日から私もクラナド通!」なんて錯覚してしまうのも仕方がないことなのかもしれない。
人間関係でも同じことが言える。
あいつはオタク。○○は嘘をつかない。あの人は高カースト。
そんなふうに、勝手にレッテルを張り付けて個性を失わせて、理解をした気になる。
“記号”は存在の“意味“を損なわせる。
世界を見るのに“記号”を用いるべきではないのなら、どうしたらよいのだろうか。
◆世界を見に行こう
世界は自分の内側にしかない。
どのような物事も自分というフィルターを介さずに見ることは叶わない。
だから、誰かを、何かを理解したというのは嘘だ。
自分が彼女はこうであると想像してそれが偶々一致しただけの話。
セカイの果てに見たあの風景もただの錯覚。
どう足掻いたところで、自分という枠からは抜け出せない。
僕らは狭いハコのなかで生きている。
結局のところ、人間は先入観から逃れることはできません。
一番初めに食べたモノがこれから先のスタンダートになるように、セカイの中にある自分と同じ(≒似たもの)を探してしまいます。
つまり、そのものを見ているようでいても結局のところ、自分の中にある記号と照らし合わせているだけだったりするわけです。
ですから、そのこと自体を悪とするべきではない。どうしようもないのだから。
では、物語世界はどう見に行くのがよいのか。
物語の人物に会いに行くにはどうしたらよいのか。
その答えh・・・・
◆本心でない言葉
書いていて分かったのが、正直どうでも良い事柄だったということだ。
私の中にある事実を羅列していく先に“物語世界”の是非は無かった。
適当な解を出して終わるのも良いかと思ったが、流石に不誠実であるのでこう書くことにした。
仕掛けが面白い作品もあれば、生きた世界に魅了されることもある。
1つの作品の楽しみ方が1つである必要もない。
そしてどの楽しみ方が正しいというものもない。
私なりの結論を出すならこうだ。
普通に観て感じて、感じたことがその人のすべてで、そしてそれが作品のすべてである。
作品を観ていて、物語に生きる人よりも全体を貫く世界観に惹かれたのなら、それが全てだし、そういったものよりもギミック的な驚きを感じたのならそれもその作品なのだ。
監督がこういっていたから、作者がこうだというから、このように楽しまなくてはいけないというわけじゃない。
また、前に見た作品がそうだからといって他の作品も同じ楽しみ方をしなくてはいけないということはない。
他人を考えるから面倒なことになるんだ。
ぼっちに生きることをお勧めします