私の世界の守り方。
世界は“好きなモノ“で満ち溢れていた。
色んなものが世界に圧し掛かってくる。
「社会」「見栄」「集団」「外聞」「自責」
私の世界は色づいていく。
好きも嫌いも普通も混ぜこぜにして。
◆付き合い40%勉強20%見栄20%好き20%
時折、学生の頃の音楽プレイヤーを聴き直すことがあります。
そこのラインナップを振り返ってみると、当時の色んな思い出が思い起こされます。
例えば、当時はどんなのが流行っていたのか。
例えば、当時好きだったアーティストは誰なのか。
例えば、勉強教材に何を使っていたのか。
そういった色んな情報がこの小さなプレイヤーに籠められているわけです。
私から何かを伝えるとするならば、大きい容量のものを購入し、できるだけ曲は消さないようにした方が良い、ということだ。
当時は要らないと思っても、後から見ると大切な思い出になっていたりするものだ。
話をもとに戻そう。
このプレイヤーを聴いてみて思うのが、本当に好きな曲は少ないなぁ、ということだ。
比率は上述してある通りだ。好きだったもの、好きだったはずのものが全然残っていない。
それで、プレイヤーを見てみると分かるわけです。
「DUO3.0」とかの勉強のための教材が一部を占めており、また当時の流行曲がメモリーを圧迫し、見栄で入れたのであろうクラシックなどが容量を抑え、好きだったものが端へ端へと追いやられている。
当時を思い出してみると、とらドラとかシャナとか釘宮病に罹っていたのでそういう曲があるはずなのだけれど、それがない。ギリジンもツンデレの歌もない。なーんもかんもなくなっているわけです。
それを見て、ふと思う。
こんな小さなプレイヤーの中ですら、私の世界は隅へ追いやられていると。
世界の侵略者はもうずっと前からそこにいた。
◆時間が想いを摩耗させる
A:「きっと時間が傷跡を癒してくれるよ。」
B:「いいや違うね。時間は傷跡を腐らせるだけだ。」
時間というものは薬にも毒にもなるともいいます。
数年前についた傷は癒えたのでしょうか。それとも、忘れてしまっただけなのでしょうか。
もし、後者ならばふとした瞬間に思い起こされて、腐りきってどうしようもない傷跡が表出するだけだ。
時間はただ経過するだけで、色んな情報を摩耗させるだけです。
言ってしまえば、記憶の肉が腐り落ちていくだけです。その時の状況とか、想いだとかそういったものを腐らせて、記憶は記録になる。
そして、記録は似たような出来事を前にすると、記憶として表出する。
治ったように見えた傷は、感じなくなっていただけなんです。
こういった機能は、傷だけでなく「想い」にも働きかける。
“好き“っていう感情は、自分の想いがストレートに出てくるものである。
この感情に関しては、どうあっても誤魔化しきれないものである。
けれどそんな“好き”という特別な感情であっても、時間は摩耗させてしまう。
当時持っていた色んな感情が詰まった“好き”は『好き』という記録として管理される。
どうして、想いまでもが過ぎ去る時間の中で摩耗してしまうのか。
どうして、大切な想いは永遠へと至らないのか。
どうして......
◆私の世界の侵略者
感情が時間と共に摩耗する原因としては、記憶の問題がある。
単純に、昔のことが遠くに感じられるようなものだ。過去の想いは現前で爆発する感情の中で薄れ去っていく。そういうものだ。
けれど、想いを薄れさせるのは、時間だけではない。
想いを薄れさせる侵略者がいる。
それは例えば、友達であったり、社会であったり、自分自身であったりするだろう。
大人になるにつれて、好きなことが遠のいていく。
“相応しい自分”を求めて動いていると、いつかどこかで迷子になってしまう。
好きなこと、やりたいこと、大切にしたいこと、そういったことを見失ってしまう。
大人だったら、子供だったら、社会人だったら、そんな言葉に踊らされて、自分を見失って、どうしようもない無気力なセカイを彷徨い歩く。
「つまらない」が口癖になって、「もうどうしようもない」が諦め文句になり、ただただ布団の中で包まり続ける。
好きなことは解らない。目蓋の裏には暗闇が広がる。夢も希望もなくなる。
◆自壊する世界
外の世界との折り合いの付け方が悪いと、こんな風に世界は壊されていく。
排除されることを恐れて世界を切り崩し、私を守る。自分を削ることでしか、世界を守れない。
大切な経験値を積み重ねてこなかった人間は大抵、世界を壊すことになる。
私の経験を振り返ってみると、それは「社会への適応力」という経験であると思える。
もう少し狭めて言うと、「集団に参加する経験」と「集団を作る経験」である。
強制的に集団の中で過ごさせられる学生の期間に、こういった経験を積んでいないとどこかで辛い思いをすることになる。
低い経験値のままでは、増加する責任や社会からの要請、相応な自分の形成、といったものに対応しきれずに、それらの「侵略者」に飲まれてしまうからだ。
難しいんですよね。今までやってこなかったことに挑戦するのは。
それに、こうした「世界との折り合いの付け方」ってことになると、ぼっちにはより難しくなる。他人を頼ることですら無理なのだから。
だから、内側に抱え込んで、自壊してしまうわけです。
まぁ、ぼっちでなくても新しい要請に応えようとしていると、自分を見失ってしまいがちです。それがたとえやりたいことだったとしても、です。社会人一年生がそういったことに対応できずに崩れるという話もよく聞きますし。
「自壊する世界」
やらなくてはいけないこと(集団適応、責任、見栄、仕事など)がやりたいことを覆い隠して壊してしまう。
◆Q.私の世界の守り方
A.私で世界を完結させる。
好きな事だけを追い続けられないから、問題が生じる。ならば、外部をシャットアウトして、自分の内側だけで生きればいい。
思い出を永遠にしたければ、そこで世界を終わらせてしまえばいいんだ。
そら、安吾の話でも出てくるだろう。永遠を誓い合って世界から消えた少年少女が。
世界から切り離されれば、私は私の世界で永遠になれる。
自分というハコの中に入って、永遠を誓えばいい。
疑似的にこうした世界を体感する方法がある。
1つは自分の部屋に籠り、電気を消して、布団に包まり、好きな音楽を聴きながら、自分の世界に浸る。それだけで、自分の世界に籠ることが出来る。
シンジ君だってやっていた。これを聴いていると、父さんが守ってくれるようだ、って。
大切な想いを自分の世界でリフレインさせて酔いしれればいいんだ。
やらなくてはいけないことなんてどこにもない。
やりたいことだけで満ちた、侵略者なんていない、私の世界に生きる。
……さて、これは幸せだろうか。
間違いなく、私の世界は守られることだろう。
誰かに付き合うことで自分の時間を割かれることもなく、お金が浪費されるわけでもない。自分のためだけに時間を使える。どうしようもないくらいに、自分のために時間が使える素敵で、魅惑的な世界。
私は幸せではない、と、思う。
どうしようもないくらいに不安定になった時にはこうすることも必要かもしれない。
けれど、これで得られるのは一時的なもので、不安も不満もなくならない。
『自分しかいない世界』の自由は随分と不自由なんだ。
比企谷八幡も言っている。ぼっちだから、自分を使うという選択しかできない。
自分で世界が完結している人間は、選べる選択肢が極端に少ない。
押井守の言葉を借りるならば『自在感』がない。
◆一人の世界の自由な不自由さ
もちろん、批判もあるだろう。
一人ならば、面白くもないことを面白いと言わなくてもいい。感情を偽らなくても良いと。
確かに、そう思うのも仕方がない。傍から見れば「どうしてそんなつまらないことで笑っているのか」とか「そんなことが楽しいだなんて随分愉快な頭をしている」とか思うことだってあるだろう。
けれど、実際は「そんなつまらないこと」でも楽しくなるのが集団というものだ。そんな些細なことにも喜びが見いだせるのが集団なんだ。一人では得られない楽しみがそこに在る。
もちろん、時には偽る必要も出てくるだろう。面白くないときだってある。
けれど、そうしたちょっとしたことに目をやり過ぎると、楽しさを1つ失ってしまう。
すると、君はいうだろう。
他人よりも自分に時間を注いだ方が良いものが作れる。例えば芸術とか。
確かに、そうしたこともある。内側で醸成されたものが他人を強く動かすことが。
けれど、それはとても難しい道なんだ。
人間は一人で堕ちつづけられるほど強くはない。
途中で怖くなってしがみついてみても、元の位置に戻ることですら難しくなる。
それに、自分のみで作り出されるものは自分にとって都合のいいものでしかない。いくら客観を意識したところで、自分の感情からは逃げ切れない。
もしも、堕ちきった先にセカイをみることができたのなら、教えてほしい。
……
一人の方が良い、と思うこともあるだろう。
私としては、全ての人が「独り」を体感して欲しいとすら願っている。
そうすれば無意識な悪意(≒善意)も少しはましになるだろう。
誰かと一緒にいるから苦労することもあるけれど、誰かと一緒にいるから楽しいこともある。
別に、身近な人と仲良くしようっていう話じゃない。
ただ、一人が一番だ、なんて思って欲しくないだけだ。
◆拡がっていく私の世界
私だけの世界に生きようと思ったら、辛い思いをすることになる。
世界の外側には敵意や悪意が満ち溢れ、手を取り合える仲間もいない。
世界を守るためには、両手を伸ばした半径85㎝ぐらいしか手に持つことが出来なくなる。
それだと、やっぱり狭くて、息苦しくて、暗闇の中で過ごすことになる。
内側に閉じた世界は、その果てから萎んでいき、いつか自身を押しつぶす。
この記事の頭で「思い出のプレイヤー」について話したと思います。
多分当時の私の世界は2GBくらいしかなくて、好きな物だけで生きられるほど器用じゃなくて、外壁を張ることに必死になっていたのだと思います。その結果が、プレイヤーの中身です。守るために壁を張って、自壊した。
結局、袋小路なんだよな。内側に閉じた世界は。
関わる世界は歳を重ねるごとに増えてゆくし、常識から良識、マナーまで、求められるものも増えてくる。
そんなすべてをシャットアウトしても、どこかで世界は耐え切れずに壊れてしまうんだ。
楽しい思い出だけをリフレインさせていても、いつか気づいてしまうんだよ。
だから、どこかで向き合わなくてはいけない。
社会や現実とかそういったものもそうだけど、自分自身の願いや祈りとも、だ。
これまで誤魔化してきた色んなことと向き合わなくてはいけない。
それはとても大変なことだ。レベルアップしてこなかったんだからな。
世間の常識ですらほど遠い。諦めたくなるだろう。また、籠りたくもなるだろう。
けど、向き合いたくなるときがいつか来る。願い続けていれば。
それでも世界はうつくしい、そう思える日が。
キャンバス広げ描いてみよう
恥ずかしがらず 素直な気持ちで
自由な色で描いてみよう
必ず見える 新しい世界
colorful days
まずは願いや祈りを見つけること。
それは、どこで見つけたっていい。現実でも、空想でも。
動き出せば世界は変わるし、拡がっていく。
嫌な事や辛いこともあるけど、それよりも大きな幸福を手に入れられる。
『失敗恐れていたら手に入らない』
停滞は衰退だ。世界は悪い事だけじゃない。
貴方の世界の果てで待っています。
◆……
どうやら、少し前にも同じような記事を作成していたようだ。
私は境界線を踏み越えることが出来なかったのだろうか。
多分、そうではないのだと思う。
踏み越えていないのなら、こうして振り返ることはない。
世界の先に疲れて、内側に戻ってきたのだと思う。
そして、これは決別の記事。
また、世界を超えて行く意思を固めた文章。
これが私のやり方なんだろうな。
それではまた、世界の外で会いましょう。