huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

空想は現実を凌駕するか

 

 

 

いつだって僕らは現実を崇めてきた

 

 

 

小説を書くのにも現実の体験が求められます。

童貞が童貞小説を書いたところで童貞にしか受けず、リア充は童貞小説を書くことはないのでそういったサイトには童貞臭さが充満しています。自分が知らないことを書こうと思ったら「妄想」で補うしかなく、それは嘘で塗り固められた理想のようなものになる。だからこそ、私が耳にする執筆手法としては自分の経験を織り交ぜながら書くと良い、といったことがあります。そうすることでこそ、リアリティーが生まれると。

ボッチでもない人がボッチの心情描写をしてみても薄いものにしかならないし、メンヘラでもない人がメンヘラの心情描写を描ききることは困難である。もちろん、自身の経験を凌駕して執筆することも可能であるが、そうした体験があると書きやすく、イメージがしやすい、ということはあるのだと思う。

 

小説っていう媒体は「空想+現実」という構成になっている。

ファンタジーな世界観の中でも、僕らと同じような悩みや問題を抱えているし、現実問題の全てを解決したような世界でも似たような問いを打ち立てている。

特に「ライトノベル」といったジャンルではそれが顕著だ。現実からかけ離れたところへ辿りついても、問題となることは大して変わらない。超常的な力を手に入れても、苦しむ内容は変わらない。その対象が「人間以外」であってもそれは大して変わらない。ロボットですら「人間」として扱うのが趨勢だから。どんな問題も人間へと帰結する。

他の媒体に目を移しても、空想100%で書かれている作品は無いのだと思う。

 

もちろん、そういった小説が悪いとか、面白くない、のだと言いたいわけではない。

むしろ、空想を交えなければ「ホンモノ」なんてないのだと思う事さえある。

仮想世界では余分な物事が排除され、「ホンモノ」に辿りつきやすい構成がされる。

だからこそ、小説を読んで、アニメを見て、映画を観て、「ホンモノ」に触れる感覚を味わえる。

私は「空想」を愛している。その力を感じている。

 

事実は小説よりも奇なり

知れ渡っている意味は、「現実に起こり得る出来事は、小説よりも奇妙な物である」というところだろうか。私は「現実は人間の想像を超えたことさえ起こり得る」として捉えている。

もしも、私が見ているすべてのモノが壁に映った影なのだとしたら、時折現実がチラつかせるモノが想像を超えるものだったとしても不思議ではない。

ふとした拍子に眼前に拡がる風景を目にした際に、小説で垣間見た風景の方が優れているといえる人はどれだけいるのだろうか。

 

現実の持つ力

現実社会から少し離れてみると分かることがある。

現実の変化を求める力は恐ろしく強い物であったということだ。

それだけ私の能力や資質が足りていなかったということでもあるため、強くは言えないが、それを感じている人は少なくないのではないだろうか。

例えば、家に三年間引き籠ってみたところで、何が変わるかというと同じ年齢の人間と比べてレベルが低いと感じるということぐらいだろうか。ここでいうレベルは社会適応力とする。社会に出ていない分、社会の中で生きづらくなっているというだけだ。

しかし、ある人は言うだろう。

「変われたよ!俺は小説を読んで変われた!」

「人生の必勝法が分かった。すべて引き寄せの法則なんだ」

などといって、空想から手に入れた経験値を我が物顔でひけらかすわけです。

自己啓発で高められたコミュ力(偽)は集団の中で粉砕され、ブロイラーへと投げ込まれる。

誰の台詞だったか覚えていないが「一人でいると特別なんだ、って気持ちが湧いてくるけど、それはただの勘違い。一人でいるんじゃなくて、輪に入れないだけよ。」というのがある。

現実と違って、空想の経験値は中々自身に反映されにくい。

集団から弾かれた人間なら分かるが、集団の中に居るだけで経験値というものが入って来る。本当に、ネトゲと一緒で輪の中に居るだけで経験値が入って来るわけである。それをそうだと自覚している人は少ないかもしれないが、お一人様ならそれがわかるだろう。そうでなくても、シューティングで高難易度後のNormalとか、意識高い人の間に入った時に感じるあれと同じだ。

知らないうちに経験値が蓄えられて、集団の色が体に染みついてくる。

だからこそ、「変わりたければ環境を変えろ」と言われるわけだ。社会的な生き物である人間は所属する集団によって変わり得るし、変わってしまう。女性が彼氏の趣味で服装が変わるのと一緒だ。

 

こんな風に、現実は人を想像しているのとは違う方向にも歪めてしまえる。

ちょっとした不運と無意識な悪意や自身の無知が重なり合って変り果てる。

本当に恐ろしいものだ。

 

小説の持つ力

小説に限定することはないが、大抵の空想は「純度」が高く設定されている。

いろんな不確実なものが排除された綺麗な結晶が空想世界にはおいてある。

それはとても魅力的で魅惑的で現実では手に入らないモノ。

 

現実に拡がる世界をそのまま空想に落とし込むのは不可能である。

単純な問題からすると「情報量」が挙げられる。現実世界は思っているよりも情報量が多く、「無駄」もまた多い。駅から家に帰るまでの道のりを考えてみても、何もないところで後ろを見てみたり、途中で手の振る強さが変わっていたり、遠回りなのに横道に入ってみたりしている。不自然なのが自然とはよく言ったものだ。現実は真っ直ぐではない。

 

そうした現実を小説や漫画といった別の媒体に落とし込む際には情報を削る、もしくは脚色する必要が出てくる。描ききれない部分を別の表現で表したり、前後の文脈の間にひそませたりするわけです。そのため、現実と比較した際にそこに存在する情報量は圧倒的に少ないものとなる。

 

空想は情報量が少ないからこそ力がある。

以前、情報とは削られてこそ力を発揮するという話をした。小説などの媒体を介することで圧縮された情報は人の内側に入り、爆発を引き起こす。

 

これが創作物の強みであり、弱みでもある。

圧縮された情報を解凍できるツール( )を持っていなければ、そこに籠められた想いも、封じ込められたセカイも、感じる事ができない。

もし、それを読み取ることが出来るならば、内側に入りながら情報は拡がっていき、ある一瞬で爆発する。

その瞬間がいつ訪れるかは人それぞれだと思うが、私はそれを忘れることが出来ないでいる。

 

また、一瞬に拡がるセカイも魅力的だが、意識が雪のようにそのセカイに溶け込んでいくのも良い。

雰囲気や「間」というのがいいのだろうか。言葉にできずにそこに佇まう。

 

創作物の面白いところは「遠いところ」にいけるところではないだろうか。

ゲームの勇者として世界を救い、異星体から人類を守り、学生に戻って魅力的な女性と付き合う。時には、世界を壊す悪魔になり、長い時を生きる少女と旅をして、世界の果てで悲しみに打ち震える。他にも、アイドルと一緒に夢を目指し、ヒトではないモノとの恋に落ちることだってある。

 

現実という枷を超えて、遥か遠いところに行ける。深いところに触れられる。

これが創作物の魅力であり、その力の根源なのだと思う。

 

 

空想は現実を凌駕するか

 

空想は人の内面に働きかける。

現実は人の外面を削げ変える。

 

空想は外面へと働きかけることは少ないが、その代わりに内面の形成に大きく関わってくる。それは例えば考え方や物事に対するスタンスであったりする。あとは心象風景にどういうものが描かれるのか、というところだろうか。そのために、外面上の変化が薄く他人からはイマイチ変化が掴み取りにくい。(偶に、枠を超えて中二へと移行する場合もある)変化としては緩やかなものだが、確かに内側では変化が起きている。

対して、現実は人の外面を削げ変える。大人しかった人が営業に就くと、性格が変わったようだ、というのがこれに当たる。外部からの要請に応えるために、外面を変える・変形させる、などをしていると次第に内面まで変わってきてしまう。内面は外面と無関係ではいられない。

 

現実が崇められるのはこうした特性があるからだ。

外面を変えてしまえば次第に内側すらも変革させられる。

自分探しとして価値観を醸成するよりも、外面を変えて社会に適応できる自分を作り上げてしまった方が楽である。

なぜなら、人間の中身を変えるのは容易なことではない。

変わりたいと思うだけでは変われない。変わったと思っても変わりきれない。

その点外面はある程度の融通が利く。

そして、それは「変わった」ということを外部に示しやすい。

 

最後に結論を書こう。

私の意見は「空想は現実を凌駕し得る」だ。

決して、空想を崇めることも、現実を崇めることも、私はしない。

 

現実の持つ暴力的な圧力に空想は拮抗し、それを圧倒し得る。

後は、それを私たちが感じ、信じるだけだ。

それを信じられなくなった時に、人は「卒業」する。

 

私は現実に負けて卒業はしたくないものだ。