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huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

意識高い系と意識が高い人

思考メモ

 

 

君は彼らを馬鹿にするが、それは頑張らなくてもよい証明にはならない。

 

 

  1. 意識高い系

 最近になると、「意識高い系」とか「意識が高い人」とかいう話を耳にするようになりました。意識が高いとか低いとかよく分からないことをいうものだと思ったものです。高すぎて昇天してしまってる人は別ですが、一般的には高い方が良いのでしょう。意識が低すぎて目の前の事すら見えなくなっている人に比べたらマシだということでしょうか。

 しかし、最近では「意識が高い人」のことを「意識高い系(笑)」と称されるようになってきた。簡単な例を挙げると、「僕らのミッションについてブレストしてコミットメントすることで、各人のナレッジをシナジーさせてコアコンピタンスを創出しようじゃないか!」という感じ。

本当はもう少し、言葉の意味を重複させて「らしさ」を演出したかったのですが、これが私の限界です。こんなふうに、日本語で話してもよいところを、経営学の用語を使ってみたりするわけです。マネージャーをマネジャーといってみたりするわけです。

こちらからすると、ナレッジってなに?コアコンピタンスってなに?コミットメントォ?どうして日本語で話そうとしないの?横文字がカッコいいの?経営用語じゃないとダメなの?どうしてそんな知りもしない言葉を使うの?良く分かりもしない言葉で話さないでよ!ドラッガーが偉いの?アンゾフもテーラーもバーナードもサイモンも偉くないの?分かんない!分かんない!分っかんないよぉ!

 私のイメージとしては、幼女が新聞を広げながら「ふむむっ、けいきがわるいですなー」といいながらテレビ欄を見ているような感じです。すごいかわいい。

 ようは、ちぐはぐなイメージが彼らを「意識高い系(笑)」に貶めるわけです。小さい子供が背伸びをして大人のマネをしている分には可愛らしいですが、大きな子供が大人の真似事をしているのは見るのは同世代からしたら痛々しく見えるのでしょう。

 このことから考えると、「意識高い系」の問題は中身が伴っていないことにあるのだと考えられる。しかし本当の問題は「カタチに固執している」ことにあるのだと私は考えています。

 意識高い系というのは一種の厨二病みたいものです。自分と意識の距離が大きく離れてしまっている。もしくは、自分と自身が下す評価がかけ離れてしまっている。

厨二病は求める評価と自身との間を埋める「理想」である。自分を認めてほしいという思いと現在の自分から、認められる自分を作り出す。機関に見つかるといけないから、前世での因縁のため、本当の自分がいるべき世界ではないから、といったようなもの。現実の自分のまま認められるに足るだけの理由を考え出す。特殊な理由以外でも、「面倒だからやらない」とか「いや、興味ないから」といって理想を理想のまま保つわけです。そうして自分を守る。

意識高い系も似たようなものです。様々な本を読み進めていると自分と意識が遠ざかっていきます。「自己啓発系」の書籍を読んでいると何かが出来る気分が沸き起こってくるようなものです。経営学なんかを読み進めていると、社会にある「システム」を理解したような気分に浸れます。カンブリアとかガイアを見ている感じかな。なんとなく成功するための「仕組み」が分かった気分になります。そうなると、今の自分が立っている場所とは異なった、遠いところに自分の像を結んでしまうわけです。多分、きっかけはこんな感じなのだと思います。

大抵の場合、ここで結ばれた「虚像」は現実によって粉砕される。グループワークで「ブレスト」といって失敗した苦い記憶が思い起こされます。遠くにある自分をイメージすることはできても、そのように行動することはなかなかできないものです。分かっているのと行動できるのとは違う、というやつです。自身が作り上げた「虚像」が壊されるところで、気が付く。自分と理想の距離が見えてくる。

ここが分岐点です。

これまでの過程は褒められるものである、とは言いませんが、恥じるようなものでもなく、バカにされるようなことでもありません。問題は、この先の選択肢。

 

A:「虚像」にしがみつく

B:「理想」を追い求める

 

選択を間違えたと思っているならばいつでも戻れるので気にすることはありません。

 

 

 

Aを選択した人を私は「意識高い系」であると考えています。

理想と離れているにもかかわらず、作り上げた「虚像」に拘り続けるわけです。何も変わらない選択肢を取っている。底辺に居ながら上層の評価を得ようとする。

これの面倒な所はいつまでたっても中身が伴わないところにある。成りたい自分を目指すのではなく、既になっているという「虚像」の上で行動するため、経験値が中に入ってこない。また、本人は「虚像」から話しかけているものの、他人からは「実像(現実の自分)」から話しかけられているため、滑稽に見えるわけです。何事も為していない人間から文句を付けられるのだからたまったものではない。

 これが深刻化してくると「カタチ」に囚われるようになる。どうもうまくいっていないという自覚がありながらも、それをどうにかすることもできないので、「カタチ」だけでも模倣するわけです。「虚像」の強化といってもいいでしょう。中身を積み上げるよりも外面を作り上げることを求めるようになります。問題なのは、表面上は問題なく進んでいるようにみえること。

勉強のできる人であろうとして、図書館で教科書を広げているわけです。傍から見れば「勉強のできる、真面目な子」という風に見えますが、その実は伴っていない。本人もそうした「カタチ」に囚われ、酔いしれ、現実から遠ざかっていく。そのことに気が付くには「受験」のように現実を突きつけるものに出逢うしかない。残念ながら手遅れだ!

 結局「ごっこ遊び」に過ぎないんです。仕事がしたいのではなく「仕事ごっこ」がしたいのであり、議論がしたいのではなく「議論ごっこ」がしたいわけです。頑張っている、というカタチに酔っているわけです。

 頑張っている人からしてみると「カタチ」が同じというだけで同列に扱われるのが気に食わないだろうし、一緒にいる人は「ごっこ遊び」に巻き込まれるわけです。つまり、意識高い系といても彼が望むシナジーは起こりえない。だから、人が離れていってしまう。

 

それでは、結論。

意識高い系は、意識が低い。

虚像は意識が高く見えるが、実像は低いまま。

「どうなりたいか」ではなく「どう見えているのか」

なんにも変らない。

 

  1. 他人を馬鹿にしたい僕らは

 意識高い系が取り扱われる背景には、他人を馬鹿にしたい人間が隠れています。頑張っている人間を馬鹿にしたくて仕方がない人間です。

こういう人は「自分の評価を高めるためには人を落とせばいい」というスタンスでいます。ほら、いるでしょう?他人を馬鹿にして笑いを取るやつが。ボッチの敵が。

 他人を貶めるのって結構簡単なんです。注目されているひとは別ですが、大抵の人は「カタチ」しか見ていないため、ちょっとした小話で評価を落とすことが出来るわけです。

「ううん、私は○○君がそんな人じゃないって知っているから!」

なんて言ってくれる人は稀です。大抵は目の前に並べられた材料だけで人を判断します。

 それでこういうことをする理由っていうのが、自分を保つためなんです。

 自分自身に評価を集めることはできなくても、相対的に評価を高めることはできる。相手を落とせばそいつよりは自分の方が上だと認識することが出来る。学校にはありがちな風景なのだと思う。「○○って、××なんだぜ!」というのを良く耳にしたものだ。手っ取り早く優位性を示し、自尊心を満たすには良い方法です。

 でも、使い方が難しいんですよね。あんまり多用しすぎていると「なんだこいつ……」ってなるので注意が必要です。特に、神経質なシーズンには。

 自分のために誰かを乏しめるなんて誰もが無意識のうちにやっているものです。それを止めることはできないし、完璧にやめることは出来ないのだと思います。

 だから、馬鹿にする当人が気付くしかないのだと思う。他人を馬鹿にするだけでは限界があるということに。下を見ればいくらでもいる、という言葉を聞いたことがありますが、まさにその通りです。自分が馬鹿に出来る相手が居なくなったら、その下のグループに行けば馬鹿に出来る相手が沢山います。進学校に行けなかった人間が滑り止めの学校で学力無双できるのと同じ。下げれば上にいる気分を味わえるわけです。

 けれど、それだといつまでたっても進むことはできない。ずぶずぶと埋まっていくだけです。そして気が付くと地面の上に立っていて、どうしようもない自分に気が付く。

 時には他人を馬鹿にしたくなる時期もあると思いますが、それでは何も変わらないし、馬鹿にしていた人に見下されることになりかねません。それが一番辛いので、頑張っていかなくてはならない。

 

  1. 努力している人

一番大変な思いをしているのが、「努力している人」であろう。

努力をしている途中というのは一番馬鹿にしやすい時期であり、馬鹿にしたい時期である。結果に結びつかないさまをみて「ほら見たことか」と言い、諦めてしまうように馬鹿にする。足を引っ張りたい人の標的になるのがこれなんです。「カタチ」を追っている「意識高い系(笑)」を見てはその滑稽さに安堵し、頑張っている人を見れば、どこかでこけてしまえと願う。

旅の途上は野次に晒されるものだ。足を引っ張りたい人間からすると、状況を変化させる人間は敵である。誰かが変わろうとすればそれを引き留める。もし、変わってしまえば今の自分も変わらなくてはならないから。

「怠業」の考え方の一つです。誰かが効率的に働いてしまえば賃金は上がるかもしれないが、課せられるノルマは増大する。基準値を上げようとする人間は同業者から袋叩きにあう。

足を引っ張ることで現状維持を図ろうとする人間は少なくありません。出る杭は叩かれると言いますが、沈められるといったほうがここでは伝わると思います。

だから、頑張っている人に向けて「意識高い系(笑)」と呼びかけるわけです。

頑張ったら、頑張った分だけ馬鹿にされる。

なんて救いがないのだろうか。

こういう場合はどうするのがいいんだろうな。

 

 手っ取り早いのは「集団化」することだろう。そこに権威が加わればなおよい。

 一人で頑張っている人間は標的にされやすい。攻撃しても跳ね返ってくるものが少ないから。それを防ぐためにも集団化は有効である。同じように頑張ろうと考えている人を集めてみんなで頑張る方向を作り上げていく。そうすると、攻撃は受けにくくなるし、たとえ受けたとしても衝撃は緩和され、内側では治癒が行われる。一人では砕かれかねない意思を集団で「塊」にすることによって強固なものにする。一人ではできないこと、仲間となら出来る事、乗り越えられるのはUnity is strength なんですよ。

 これに加えて、権威があるとなおよい。それは「先生」だったり「コーチ」だったり、「講師」だったりする。頑張っていく先に未来を感じさせてくれる存在がいることは大きな助けになる。

 もう一つの戦法は「ボッチ」になることである。

 他人が関わってくるから意志が砕けてしまう。自分の努力を揶揄する人間に悟られなければいいのだ。「意識高い系(笑)」とレッテルを張り付ける人間も居なければいい。杭は見られるから打たれるのだ。見られなければ打たれることは無い。

 しかし、このやり方には一つの難点がある。逓減していくモチベーションをどうやって補充・維持していくのか、という問題だ。他人に成果物をひけらかすことで優越感を感じることもできず、サークルのように傷のなめ合いをすることもできない。ボッチは外部からモチベーションを補充することが出来ないのである。また、他人と共に行動する楽しさを知らないのである。誰かに足を引っ張られる可能性は薄いが、自分自身が重荷になりかねない。だから、あまりこのやり方はお勧めしない。全ての関係性を断ちきった上で何かを積み上げるのは大変な苦労なものだ。その上、誰も支えてくれる人がいないため、積み上げたものが壊れやすい。こういった頑張り方が出来る人も特別なのかもしれない。

 

  1. 終わりに

今回は意識高い系についてとその周りについて考えてみた。

大学1年生と大学4年生の初めの頃には意識が高い人が多くなるので注意されたい。意識高い人と意識高い系は、遠目から見ている分にはなんら変わりが無い。知らずに近づいてのまれてしまうと、自分は意識が低い人であるように思えてきて辛くなるかもしれない。

しかし、よくよく見てみると、「カタチ」に踊らされている人間もいれば、端の方で着々と準備を進めている人に気が付くことが出来る。

「意識高い系」の空気にのまれて、「カタチ」に振り回されないことを願う。

 

 追記:社会人の意識高い系

この記事を書いて少ししたころに思い出しました。

学生の時分に発生する「意識高い系」と社会人の意識高い系は少し異なっているのです。

それほど多くの「意識高い系社会人」と関わったことがないので、少ない経験ながら一応触れておこうと思います。

社会人だと「意識が高い人」と評価される人は少ないように感じています。

何故ならば、意識がどうのこうのと言うよりも、実績を積み重ねた「凄い人」が多いからです。意識だけが先行しているような人は少なく、結果をキチンと出している人が多いわけです。

そのため「意識高い系」と言われるのは実績が伴わない人間であることが多くなります。結果が出ているのならば、意識がうんぬんと言われようがないわけです。

当人が発展途上ならば、学生の時分同様で良いのですが、そうでないとすると少しやっかいになります。

意識高い系が一種の防衛適性として機能してしまっている人がいるわけです。

「これは未来へのステップだから大丈夫」「正しいことをしているんだから大丈夫」といったような具合です。

自身を正当化するために機能しているので、そうではない他人を下に見てしまったりするわけです。

これが良い機能を果たした人を知っているので、一概に悪い事ではないのだと思います。

 

私のスタンスとしては「意識だけを遠く飛ばしていてもダメ」というのは変わりません。やりたいことや為したいことがあるならば、意識に引きずられるように肉体を動かしていかないとダメなんだろうな。それが難しいのだけれども、この6畳間から抜け出せなければ何も変わらないわけです。トロトロのように。