作品と僕と
セカイは君を待っている。
きっかけは知人のこの会話
A:「四月は君の嘘って面白いの?」
B:「まぁ、雰囲気みたいなところがあるしなー」
僕:「……」
楽しそうで何よりです。
四月は君の嘘という作品について考えてみると、何が面白いのか、というのを言及しにくい作品だなぁ、と思っています。
キャッチコピーには「音が見える」なんてのが書かれていたと記憶していますが、それだから面白いのかというとイマイチしっくりこない。
他には、「青春してるなぁ」というのがよく聞くフレーズ。確かに、あれは青春かもしれないが、その一言で済まして欲しくはない。しかし、青春しているから面白いのだろうか。
うーん、イマイチしっくりくる理由が見当たらない。もしかすると、面白いと思っていなかったのだろうか。いや、しかし......
面白いのに、面白かったはずなのに、その理由が見つからなくて、嫌いなのかと錯覚してしまう。
『面白い』ってなんだろう。
◆純粋にカッコいい
先日、バイオハザードの劇場版がやっていました。
それを観ていて思うのは「アクションシーンがカッコいいなぁ」ということだった。
ストーリーや設定などはそれほど頭に入ってきませんでしたが、アクションシーンだけは印象に残っています。
バトルシーンのカッコよさで言うならば、今期のfateも当て嵌まって来るでしょう。ついこの間のキャスターとの戦闘シーンもカッコよかった。
中身もさることながら、作品から与えられるカッコよさが先行してイメージとして保存されている。
こんな風に、ストーリーとか構成とか、そういったものではなくて、純粋なカッコよさというものも1つの面白さに入ってきます。
◆ギミックが面白い
「実はわたしたちは人間じゃなかったのさ!」
SFなんかでよくある手法です。生きているかと思ったら、ホルマリン漬けの脳みそだったとかそういうのから、新人類として台頭していたのだった、とかそういうの。
SFでこういうのを考えるとすると、神林長平氏の「完璧な涙」なんかが好きだったりします。張り巡らされた伏線が巻頭の一文に帰結したときは特別な感動がありました。「時間を封じ込めた水球」なんてズルい表現ですよね。ビビッ、ってなりますよそりゃあ。
もっと感じやすいものだとミステリーものでしょうか。綾辻さんの「十角館の殺人」はページを捲った先のたった一行で全てを悟らされる、という体験は印象的です。こんな書き方をされると堪らないですよね。
後はゲームだと「ever17」になるのかな。謎が一気に解けていくっていう感覚は。コメッチョ、コメッチョ。
アニメだとまどかとかだろうか。「ループかよー」とか「魔女になるしかないじゃない!」とかで興奮していた方も多かったと思います。
もっと単純に考えるとするならば、コナン君のネクストコナンズヒントからトリックを見破るようなことだろうか。「すべてがFになったんすよー」とか「誰も居なくなったんすよー」ってなるのも一つの面白さだと思います。
こういった作品を貫く「謎」を中心にしたギミック、というものも1つの面白さになります。
◆設定が面白い
「エロ同人みたいに!エロ同人みたいに!」というわけです。
つまり、想像すると分かりやすいのが「エロ方面」になります。
キャラクターとかストーリーとかではなくて、その設定に興奮するというやつです。
例えば、「NTR」
最近流行ですよね。寝取り、寝取られ、寝取らせまで色々と意味が込められていますが、そういった状況(シチュエーション)に萌えるというわけです。壁一枚を挟んでげふんげふん。
まぁ、他にも色々好みのものがあると思いますが、それは各々の想像にお任せします。
そういった設定そのものに重点が置かれている、というのがここの特徴です。
一般的なものに置き換えて考えてみると、「30歳のニートが戦場に向かう!?」「DNAレベルで相性が良い人が結婚する!?」とかそういうのが挙げられる。
少し前のなろうでは「主人公の設定」というものが重視されていたように思える。
転生するにしても能力で差別化を図る(前衛ジョブの能力から、後衛ジョブまで)ものから、主人公の世界での立ち位置といったことまで「設定」が重視されていた。最初は俺TUEEEで、それのアンチとして弱いけど俺TUEEEが出て、そのまたアンチで普通な俺TUEEEが出てきたりしました。
他にも、ファヨールのようにこれから先に繋がるような理論的な枠組みを作ったものもこれに含まれてきます。ストーリー的にはイマイチだが、そのコンセプトは使い道がある、といった感じ。
◆キャラクターが可愛い・カッコいい、人の魅力
ラブコメを考えると分かりやすいかもしれません。
マリーが出てくることを期待していつもジャンプを買っているのですが、この展開前にもみたぞいと思うことが少なくありません。それでも読んでしまうんですよね。マリーが可愛いので。
ストーリーや話の流れとかそういうものよりも「キャラクター」が先行しているわけです。
こうなってくると、重複する展開だろうが、中弛みした展開だとしても、矛盾するような内容であったとしても、気にせず読み進めることが出来るわけです。
そうすると信者となって盲信して、グッズを買ってしまうわけです。
最近の潮流としては、キャラクターと歴史を交えることでキャラクターの背景を充実させるというのがあります。
そうです。金剛デース!
ブログを想定してみると分かりやすいかもしれません。
まだ記事も少ない内では、特徴も個性も見えてきませんが、記事を積み重ねていくにつれて具体的な人物像やその人の主義・思考が見えてきたりします。
これは、漫画などでも同じで、ポッと出てきたようなキャラクターは受け手側が積み重ねてきた背景や共有した感情も持っていないため、魅力が薄まった状態で現れることになる。
しかし、艦コレでは実在の艦隊を通じてキャラクターを表現することによりこれを緩和する。気に入った艦娘についてググってみるとその背景が見えてくるわけです。そうすることで、作り手側が込めた思いにも気が付けるし、艦娘との想いを共感することが出来る。
これにより、キャラクターの枠を超えた想いが醸成される。
また、こうした艦娘の魅力だけでなく、艦コレの世界観に「ゆらぎ」があるためそこに自身の妄想を詰め込みやすい、というのも人気の理由ではないかと思う。
少し話がそれました。
最近の傾向としては「人」よりも「キャラクター」の度合いが高まっているように思えます。お嬢様はお嬢様で、お姫様はお姫様で、ツンデレはツンデレ、みたいに、与えられた記号を全うとする作品が増えているというのと、そういった記号(≒理想)を押し付ける人が増えています。
これは先入観とか願望とかが重なってできるものなのでどうこうするのが難しいものでもあります。いい例なのが、アイマスです。アニメだったりデレマス(iOS版が出ました)やSSの感じから「千早ってこんなんだろう。んあー」と決めつけてゲームを始めると痛い目をみる。想像していたのと違う。違うんだからな。
千早と最初からパートナーになれると思うなよ!千早はすっごい面倒くさいんだからな。俺も応援してるぞ、っていうと「頑張るのは私なのですが……」なんて言われるんだからな。絶対勝てるぞ、っていうと「戦略とかはないんですか?……」なんていわれるんだからな。それが次第に信頼してくれるようになってきて「一緒に頑張ってきましたから」とか言ってくれるようになったかと思うと、朝来たら居なかったりするんだからな。ストイックさはどこにいったんだよ!
とまぁ、現在Cランクの千早との思い出を語ってみました。
私の持っていた千早像とも少し異なるし、千早が話す「千早」ともちょっと違っていたりします。千早はこうだ!っていうのはあるけれど、時にはそれから外れていたり、それが構築されている途中だったりして常に同じ千早はどこにもいないわけです。
人ってこんな感じに「ゆらぎ」があるものなんだと思います。こうだと思っていた彼女が実はこういう人だったりみたいなこともある。常に固定された人なんてのはいない。確固たる軸を持っているように見える人でも舞台袖では泣いていたりするものです。嘘を吐かないといった子が関係性のために真実を言わない、という選択肢をとってみたりするわけです。
私はそういった「ゆらぎ」も描き、キャラクターを「人」として感じさせられた時に強い魅力を感じさせられます。
こういったキャラクターレベルでの可愛さや、人として魅力的、といったことは面白さの一つの要因になるでしょう。
◆テーマが面白い
「ヒトとモノのボーイミーツガール」
「管理社会は人類の幸福を最大化するか」
「優しすぎる社会、ユートピアの臨界点」
作品を貫くテーマを中心に繰り広げられる物語。のんのんびよりとかの日常系とは毛色が異なってくる。作品の全てでもって描きたいもの、描かれたものに魅力を感じるわけである。
SF方面になってくると、「なんだよこの管理社会はー」とか「僕らが目指したユートピアはどこにあるんだよー」とかになってくる。SF作品では現在に対する警句が込められているものが少なくない。本当にこれでいいのか、これが幸せなのか、とかそういったものを感じさせてくれる作品が多いのである。作品自体が答えを求めるための問いになっていたりするので、そこから色々と思索が広がっていくのは面白いものがある。
漫画だと最強の果てを描くとか、一言名言マンガとかそういったもの。
後は、現実とのたった一つの違いを描いたものとかだろうか。
現実に「魔法」を組み込んでみたり、「超能力」を組み込んでみたりする。
たった一つの仕組みを導入することでより際立ってくる人間性や、システム的な欠陥、社会問題なんてものを別の視点から見てみようとする。
もしくは、現実から離れていても変わらないものを描き出そうとする。
こんな風に、作品が取り扱っているテーマや、挑んでいる問題というものも面白さの一つになってくる。
◆エロ、グロ、ナンセンス
これは、第一次大戦後の日本の頽廃・混乱した社会民衆の風俗や心理を表す有名な言葉だそうです。(人間の生き方/安岡正篤著)
頽廃した時代になると、最初に表れるのがエロティシズムだそうである。それにも次第に飽きてくる。そうするともっと違った、もっと野性的な刺激を要求するようになる。もっと変態的な刺激を要求するようになる。それが「グロ」であり、グロテクスネスというものであるそうだ。
本書で言われているものだと、好色から不細工へと好みが変化していったという風に書かれている。
一般的な「グロテクス」の方面から考えてもこれは言えているのではないかと思える。
中学生男子はエロの権化と言うように、そちらの方面への興味が増えてくる。それと同時に、グロテクスを求めていたようにも思える。グロイと評判だった「バトルロワイヤル」を何故か見てみたがったり、対象年齢よりも上のゲームを横目で追っていた時期があったように思える。
また、エロ方面への探求が進んでいくと次第にグロテクスの方面が加わってくる。本書にもあるように、「より強い刺激」を求めた結果としてそういった方向に向かっていく。
エロに飽き、グロに飽き、その先に待っているのはナンセンス。
本来求められるべき精神的なものが扱われることはない。故に、ナンセンス。といったように本書では続いていきます。
まぁ、こういった方面での「面白さ」というものも確かに存在しているわけです。
◆分かりやすい『面白さ』
不審を感じさせた心の動きは、言語的な思考ではなく、より大量のデータがおそらく並列に処理されて、一瞬にパターン化されて、すぐにまた変容し消えてゆく情報の波だろうが、そいつが消えても不審感覚そのものはしばらくは消えない。消えないから、それを意識すれば、この感じの原因はなんだろうと考えることになる。もともと理屈をこねたうえで生じた感覚ではないから、考えてもわかるわけがない。それでは気がすまないので、とにかく不審を抱かせる原因を論理的に探し、ほとんど瞬間的に、おれの存在に突き当たる。おれからみれば、そんな結果は理不尽だが、状況としては間違ってはいない結論だ。
身近な例にするならばこんな感じだろう。
なんだかこのアニメはつまらない気がするぞ→なんでだろーなー→そういえば、こいつはあの駄作の監督じゃないか→あの監督だからつまらないのだ
本当は、アニメの作画が気に食わなかったのかもしれないし、登場人物が許せないような人間だったのかもしれない。本当の理由は当人の内側にしか見つからないが、感情の落としどころを論理的に見つけるわけである。分かりやすい理由を見つけるのである。
こんな風に、心の動きの原因を探ろうとすると論理的に正しい、間違った原因に辿りついてしまうことが少なくない。
本来心を動かす原因というものは、その人間の生まれや育ちや環境などの人生経験のすべてから生じたものに違いないにもかかわらず、身近にある対象だけで考えてしまいがちだからである。
ディズニーランドの待ち時間で別れるというのも、待つことのイライラが相手といるからイライラすることへと置換してしまっているかもしれない。ぼっちには分からない。
また、これに加えて「面白さ」は関係性の中で際立つものである。
例えば、先述した「テーマの面白さ」だけがあったとしても面白い作品になるとは限らないし、戦闘シーンがカッコいいだけでも物足りなさが生じるだろう。(ただし、「可愛いは正義」とあるように、可愛さは諸要素を凌駕し得る)
要は、面白さが重なり合って、「面白い」を感じているわけである。
そうすると、どれが1つの面白さを切り取ってみたところで作品から感じたことを伝えることはできないし、
面白さが個人に起因し、かつ、関係性の中に立脚するものだとすると、もう「原作を読め!」という言葉に還元するしかなくなってくる。もしくは正義を身に纏うしかなくなる。
面白さが個人と切り離せないならば、どれだけ言葉を尽くしても伝わらないかもしれないし、伝えられないかもしれないのだ。ならば、正しさ(大多数の意見、販売数(データ)、制作サイドの話など)で話をしていくしかない。
私の愛し方で伝えられないなら、伝えきれないなら、正しいことを伝えるしかないじゃないか。
あれ?そしたらブログなんていらないんでね?
正しいことは製作陣の方が詳しいんだし。
◆伝えられない、伝えきれない世界で何を書くのか
何を書いても伝わらないかもしれない。
どう書いても伝えきれないかもしれない。
その上正しいことなど書くことが出来ない。
コンテンツには正しさなんて必要ないんです。
それに加えて、コンテンツはすべて楽しまないといけないわけじゃない。
全てのキャラクターの意図や意識や考え方も理解して、そのセカイに拡がるすべての事象を捉え観測し、その背景に籠められた製作者側の意図から声優の出演状況まですべてを理解しなければいけないわけではない。
「グレッグ・イーガンは多少よくわからなくてもすっっっごくおもしろい!!」
「よくわからないけど、よくわからなくていいってコトはよくわかった気がする……」
「それでいい!よくわからなくても、大事なコトは伝わるモノだ」
―バーナード譲曰く。 神林とド嬢の会話
そりゃあ客観的な部分ならいくらでも「知識」を詰め込むことで対応できるけれどそれがどうした、という話だ。何のためにその本を手に取ったのか。他人にひけらかしたいだけなのか。誰のためにその本はあるのか。自分のためか。他人のためか。
もちろん、知っているからこそ楽しめる部分が増えるのは間違いないことである。さす兄しかり、神林しかり。けれど、それらを知っていないから楽しむことが出来ないというわけではない。むしろ、知らないからこそ見える視点なんてものもあったりする。そうすると作者も見たことのない視点から作品を見る、なんてことになる。そういうのでもいいんだと思います。
結局、僕の中でどれくらい好きか、っていうか、僕がどれくらいこの作品を好きか……深井零という人間をどれくらい好きかっていうそれでしかホント、勝負できないので……まぁそれで、観て、「そんな愛し方じゃ生ぬるいよ」って言ってくれる方がいらっしゃるんだったら、まぁその批判は甘んじて受けるし、でも僕は僕の愛し方で、この作品と、この人物を愛すしかないな、と思ってますね、今は。
これはコンテンツにかかわる上で私の基本的なスタンスになっているし、他の人もこうあって欲しいと思っています。
原作をアニメ化する際にも、「原作ファンを考えるならこれは入れた方がいい」とかではなくて「この作品にはこれが欠かせないから入れる」というスタンスでいてほしい。本当に好きな作品だったら、線路をなぞるだけでなくて、順番を変えて、表情を変えて、風景を変えてでも表現してほしい。
これは自分が作品を楽しむときも一緒です。
他の誰でもない自分の視点で作品を楽しむことを大切にしています。
そうやって、作品と自分で“意味”を作り上げていく。
だから、私はブログっていうのは自分と作品を通じて生まれた“意味”を見せる場であるし、それを見る場であるんだと思っています。
そしてその自分と作品が混ざり合って純度が高まっていくと、新しい世界を創りあげてみたりする。それは、小説かもしれないし、漫画かもしれないし、音楽かもしれないし、一枚の絵かもしれない。そしてそれは、1つの作品と作り上げる二次創作かもしれないし、これまでのすべてとともに作り上げる創作物かもしれない。それは一種の衝動なんだろう。これまでの手法では満足できなくなる。新しい愛し方を試したくなる。そんなときもあったりする。
もし、自分の視点が見つからないのだとしたら努力するしかない。
今回の「四月は君の嘘」もそうなんだと思います。なんとなくは掴めているけれど、完全には溶け合えていないんです。だから、「青春」とか「雰囲気」とかの言葉で誤魔化すぐらいしかできない。
それには、何度も繰り返し読んだり、作品に出てくるものに実際に触れてみたりするしかないんだと思います。出てくる楽曲を聴きながら読んでみたりしてさ。
そうすると、理解していないつもりだったものがある日夢に出てくるときがある。
要は、自分の中で整理がついていなかっただけ、っていうこともあるので、焦らず待って、他人の視点を借りて変な癖をつけてしまわないようにしたい。
そうすれば、今よりもずっと、もっと作品を楽しむことが出来る。
誰かの視点を借りなくても作品を楽しめるようになる。
それから、他の人の愛し方を見てみるんです。
そうすると、「あぁ、この人はこんな風に受け取ったんだな」とか「こういう風な愛し方があるのか」なんて発見があったりする。
そして今度はそれと作品と自分で“新しい意味”を作っていく。
自分の視点が無かったら、その“意味”に自分が加わることは無くて、いつまでたっても自分は外側に居て、楽しさから遠ざかっていく。
それはとっても悲しい、って思うな......
というわけで、またクラシックに浸る毎日に戻ります。
セカイはずっと待っています。
貴方が私を見つけてくれることを。
二人の空白に“意味”を注ぎ込んでくれることを。