言葉の檻に囚われて
言葉ばかりを追っていると、言葉の檻に閉じ込められてしまう。
この言葉は現在見ている人、もしくは見た人にはなじみ深いものではないだろうか。
五線譜の檻に閉じ込められる。白と黒の鍵盤で世界が覆い隠される。
それと同じように、言葉ばかり追っていると言葉の檻に閉じ込められてしまうのではないだろうか。
◆言葉に囚われる
そういう体験は実際にある。
例えば、少し前に書いた「面白い」というもの。
あの時は、他人の言葉に支配されてしまったんだよな。
「あの作品って面白いの?」という言葉。
知人から言われたその言葉に踊らされて、私は言葉に閉じ込められた。今になって考えてみると、作品の評価って「面白い」以外にもたくさんあるんですよね。
「凄い」とか「悲しい」とかそういった単純なものでもたくさんある。
本来は、「面白い」と「面白くない」の二つしか評価基準が無いわけじゃないんです。
面白さとは別の項目がいろいろとあるはずだったのに、私はそれを忘れて「面白いか否か、それが問題だ」となってしまった。
作品を「面白さ」という観点だけで考えてしまったから問題だったんですよね。
だから、あの時は戸惑ってしまった。
まぁ、そんな感じで知らず知らずのうちに言葉の檻に閉じ込められてしまうことがあります。
それは他人の言葉かもしれないし、自分の言葉かもしれない。
どちらにしても、その言葉を通して見える世界の優先度が高まってしまうわけです。
何かを深く考えたいのなら、わざと言葉の檻に入り込んで考え抜くというのもいいかもしれませんね。
けれど、作品を楽しむ、という観点から考えるならば、檻に閉じこもるだけでなくいったん離れて別の言葉を見つけてみてもいいんじゃないでしょうか。
◆言葉の檻
私は作品にはいくつか鍵になる言葉があると考えています。
それを見つけられた時に、私はその作品と初めて出会うことが出来たのだと思う。特に、好きな作品に関してはそう思っています。
例えば、BEATLESSの時は「アナログハック」「意味とカタチ」「ヒトとモノ」という辺りが作品を貫く言葉であるという風に考えました。そこから、見出される一つの意味が私と作品が作り上げるものだと感じられました。
ですから、言葉の檻に入ってしまうこと自体は悪い事ではないと考えています。
ただ、言葉の檻に入り込んだ状態では「正しい判断」ができると考えない方が良いです。
「面白いってなんだろう」というところから、「面白さ」について色々と考えることが出来たのは良い事だったと思いますが、その過程でいくつかの作品を「面白さ」のみで観てしまっている可能性があります。そうすると「面白さ」からは外れた作品は駄作として切り捨ててしまいかねない。
そのままの作品を捉えようと思ったら、一度言葉の檻から出てみないと、固まった視点でしか見ることが出来なくなるわけです。
現在、作品は多くの言葉で取り囲まれています。
それは例えば、SFやファンタジーを始めとした「ジャンル」
それは例えば、製作者による「言葉」
それは例えば、ネット上で集まった「イメージ」
それは例えば、作品の帯に付けられた「謳い文句」
気を付けるべきは他人の意志ががっつりと入ったネット上や製作者による言葉です。
「この作品は○○です」と言われてしまうと、どうしてもその視点を探してしまいがちです。
例えを出すなら、「この作品はどんでん返しが凄いんだ」と言われると、どこにその伏線があるのかを考えながら読んでしまうような感覚です。
何度も書いていますが、「作品は等身大の自分で楽しむべきもの」です。
自分が観た範囲が作品の全てであり、自分のすべてである。
作品がつまらなく見えたとしたら、それは自分が大きくなりすぎているか、捻くれているだけです。
作品が面白く見ているとしたら、それは自分がその作品に納まる人間だったか、それを楽しめるだけの器を持っていただけです。
自分が見つけた言葉と素直に付き合えばいいんです。
正しい言葉が正解とは限らないし、言葉に正解なんてないんです。
だからさ、自分の言葉で語ってよ!
◆言葉の檻との付き合い方
どうやっても言葉というものから逃れることはできない人生です。
口に出される言葉から、目の前を流れていく言葉、ラジオから聞こえる言葉に、店内に鳴り響く言葉、音楽を通して聞こえる言葉。
言葉から逃れることはできない。
しかし、言葉の檻に囚われていては偏った見方しかできない。どうすればよいのか。
私が昔からやっているのは、囚われた言葉に関することを延々と書き連ねる。それを満足するまで続けるわけです。満足とは言葉の終着点だろうな、というところまで書くことだ。
また、前回の記事を参照すると「面白さとは要素の集合である」みたいなことだ。
そうして言葉に”意味”とカタチを与えることで自分の思考から外してしまう。ある種終わったこととして考えるのだ。
それから、何日か、何か月か経ってもその言葉を変わらずに使い続けていたらそれは本物だったと考えればいい。
変わらず内側に残り続ける言葉は檻として自分を囲うものではなく、内側で自分を支える言葉になったのだ。
もし、時間が経ってから違うと思ったのなら、言葉の檻にもう一度入って満足するまで書き連ねればいい。そうして、言葉のカタチや言葉の”意味”を一本一本理解していく。そうすればいつの日にか言葉は内側に染み込んでいく。
言葉に囚われているなら、その言葉は自分の外側にある。
そうでないなら、自分の内側にある。
色んな言葉を内部化していきたい。
そして、いつの日か言葉のない世界を言葉で表したい。
それでは、言葉の外側で会いましょう。