今年の総括
外側の話では無くて、内側の話。
つまり、私の考え事に関しての総括ということになります。
これまでの記事とか、読んだ本とかそういうものを抽出していくつかの項目で考えたことを書いて、今年最後の投稿にしようかと思います。
興味のある方は読んでいってください。
コンテンツ
●生きることは傷つくこと
●物語は動き出す
●正しさで人は救えない
●コンテンツとの向き合い方
●都合のいいモノしか見つからない
●私的メモ
●生きることは傷つくこと
人は何をもって人といえるのだろう。
僕は意志だと思う。
何をしたいか、するべきか。それが人間の正体だと思う。
(中略)
僕が思う意思とは、生きることと真逆を行くことだ。
命を削ること、危険を犯すこと、そうしてでも手に入れたいもの。
そのエネルギーが意志だ。
―インスタントバレット 裏表紙 黒瀬
生きるということは傷つくことである。
そう考えると、痛みとか傷とかが生きている証拠みたいな気がしてきますね。
「死」を感じられる場所でしか「生」を感じられない、なんていうのはこういうところから来ているのかもしれません。
生命に反する行動が、生きている実感を感じさせる。
これは別に「死」に近づく行為が生きている、ということではありません。
ハーモニーではこんな風に書いてあります。
人間は進歩するほど、死人に近づいてゆくの
というより、限りなく死人に近づいてゆくことを進歩と呼ぶのよ
― ハーモニー
完全なるハーモニーが完成すれば個人の意思は失われる。
生命に反する行動は決してとられなくなる。
黒瀬が定義する「意志」を元に考えるならば、人は人でなくなるわけだ。
ミァハが言うのはそういうことだろう。「意志」というものがなくなった世界では人は「生きている」感覚が無くなる。
人間が進歩するにしたがって、「意志」は喪失されていく。
生きている、という状況から離れていく。
間違えてはいけないのが、その逆はアリエナイ、ということです。
傷つくことが生きている、というのは間違いです。
そして、傷ついているから生きている、なんていうのも違うのだと思います。
正しくいうのなら、「傷つくかもしれないが進む」それが意志というものではないだろうか。
傷ついたとしても手に入れたい、そんなもののために行動するっていうのが意志ってやつじゃないだろうか。
傷つくこと避けたら ねぇ ダメだよ
―shiny smile (idolm@ster)
「傷つくこと」を極端に避けてしまってはダメなのなかなぁと。
そんな風に傷を避けていたら、なんにもできない自分が出来上がって、キラキラとしてステージに立つことは一生かなわないだろう。
ここでもう1つ、問題に上がるのが「意志がない」という人間がいるということだ。
日本人に多いらしい、「目的意識がない人間」というやつ。
何をしたいか、するべきか。それが人間の正体だと思う。
僕にはそれがない。
したいことがない。
漫画読みたいとか、アニメ見たいとか、そういうのはあるけれど、
きっとそれは僕の本質じゃなくて、食欲レベルの問題だと思う。
―インスタントバレット 裏表紙 黒瀬
極端な話をすると、昔ならば生きていくこと事態に「意志」というものが必要だったが、今の時代は生きていく分には「意志」が必要ない。流されていれば「意志」というものがなくても生きて行けたりするのが昨今の時代であった。(今~未来に関して言うと、「意志なき人間」は淘汰されるのだろうかと思っている。)むしろ、「意志」というものにリソースを割くこと自体が不合理であるとしても良いのかもしれない。これまでは共通の軸の上で競争優位をぶつけ合えばよかったのだから、そこから外れる「意志」は障害として排除されかねない。
そういうわけで、自分の「意志」よりも市場の「要請」に応えていった結果として、平均化された意志なき人間が量産された。
学生の頃に、そんなことを考えていたように思う。
自分の「意志」よりも「他」を優先してきたから、求めてきたから、優しくするから、だから悪いのは僕ではない、という感じに。
どんな理由があるにせよ、「意志なき人間」として私はこの世界にいるわけだ。
「意志なき人間」の特徴としては、【外側からの刺激に反応する】ということだ。
内側から沸き起こる刺激には反応しない、というか内側からの刺激を感知する器官が死んでいる。
もし、それが人間の本質だとすれば、随分と受動的で、
無意味な現象だと思う。
―インスタントバレット 裏表紙 黒瀬
先ほどの話に戻るが、「意志なき人間」とは無意味な現象であり、ミァハの言葉を借りるなら死人、ということだ。
生きるためには「意志」が必要である。
ならば、それが無い人間はどうしたらよいのだろうか。
●物語は動き出す
このままでいいんだずっとこのままで
―ミサイルとプランクトン 千秋
異世界にきた勇者はいつか現実に帰ってゆく。
止まった世界もいつかは動き出す。
すべてのものは移ろいゆく。
そこに例外は存在しない。
止まった世界でも人が動いていたように、いつまでも止まっているものはないし、変わらないものもない。
どうして止まっていることは悪なのだろうか。
どうして美しいものを美しいままにしないのだろうか。
どうして関係性を進めなくてはいけないのだろうか。
どうして世界は変わってしまうのだろうか。
いいじゃないか、止まったままで。
傷つけあうことしかできないのなら、そんな人類は終わってしまってもいい。
それでも物語は動き出す。動き出してしまう。
ずっと止まったままで、同じところをループしていればいいものなのに、変わろうとする。変わってしまう。
それはなんでかっていうと、動き出さないと面白くないっていう「製作者」の意図はもちろんあるだろうし、「読者」も似た様に思うだろう。動いていないモノは死んでいるのと同義だから。
それとは別に、そのセカイに生きる人間が変わろうと願ってしまう。
言ってしまえばもとには戻れないのに、その言葉を口にしてしまう。
どんな物事でもそうだよな。
止まったままでいればどこかから刺激が加えられて変化してしまう。
理想のユートピアを作ってみても、その息苦しさから逃れようと人はもがく。
人間というものはそういうものなのかもしれない。
ずっと止まったままではいられない。
変わらずにはいられない。
だから、人は動き出すし、物語は動き出す。
変わるという意欲を失ってしまったら人間は終わってしまう。(その設定は月の珊瑚。いや、もしかすると進歩≒変化の果ては死人であるために、停止したのかもしれない。)
人間に「意志」があるから「物語は動き出す」というわけ。
つまり、「意志なき人間」が量産されれば、世界は止まってしまう。
そしてそれは、私達の一人一人が世界を終わらせる一要因となり得るということだ。
じゃあなんでそういう人間が生まれてしまうのか、っていうと「気づくことが出来なかったから」だと思っています。
美希のパパとママはね、美希は美希がしたいことをしなさい、っていってくれるんだ。
美希、前はねそれでいいって思ってたの。好きな事だけしてればいいって。
でもね、最近それも違うのかもって違う?
辛い事とか、苦しいとかがあっても、それでもわくわくしたり、どきどきするようなことをしたいって、そう思うようになったの
―アニマス 12話 星井美希
辛くなくても楽しいものがある。
苦しくなくても楽しいものがある。
どうして、辛くても苦しくてもわくわくやどきどきすることを選択するのだろうか。
刺激は刺激で塗り替えてしまえる。
「意志」の果てにあるモノの代替品がこの世の中には溢れすぎている。
変わらなくても得られるものがこの世の中には溢れすぎている。
そうした「意志」とはかけ離れたモノにリソースが割かれて、「意志」は薄くなり刺激に埋もれて見えなくなる。
多様化したのだ、といえば聞こえがいいが、実際は専門化されたのではなくただ単に希薄になっただけではないかと、私自身をみていて思ってしまう。
辛くても苦しくてもわくわくどきどきするようなことがある、ってことに気が付かないままに生きてしまえば、傷つくことを恐れて、「意志なき人間」が出来上がってしまう。
もちろん、そのことに気が付いてしまえば、自分を変えたいと願うだろう。けれど
変わりたい
そう思うだけで変われたのなら
どれだけ幸せだっただろう
―インスタントバレット
願うだけでは変われない。知っただけでは変われない。気が付いたとしても変われない。
人間なんてそんなもの。終わった人間なんてそんなもの。
止まった人間は動き続ける世界に置いていかれる。
●正しさで人は救えない
「正義の剣で切らないで」なんていうタイトルで記事を書いたように思います。
今でもそのスタンスは変わっていません。正義なんてものは自分を正当化するための武器でしかなくて、人を切りつけるための武器でしかない。
だから、正義であることが救いになる、なんてことにはならないというわけです。
大抵の場合、「正しい」っていうのは「間違っていない」というだけの場合が多いんだ。
つまり、「間違っていない」からといって「救える」というわけではない。
別の言い方をすると
間違っていない選択には”意味”がない。
もちろん、何かしらの”価値”はあるだろうが、”意味”はない。
没案にした「ロジックでは救えない世界へようこそ」という俺ガイルの記事がある。
没にしたのはタイトルで完結していたからです。
比企谷の選択はロジックの上どうしようもないくらいに「正しい」。
竹藪の中での行動を観て、そう思ったのだと覚えています。
自分という選択肢を最大限活用して、「良い」ところに着地させる。
ここでいう「良い」っていうのは論理の上の話であって、机の上の話です。
今までにも何度となく「結果」を比企谷は出している。
つまるところ、比企谷は価値のある行動を取っているわけだ。
けれど、そこには意味が無かった。意味が欠落していた。
比企谷が起こしたのは基本的に表面上の解決である。
カタチの上では解決しているわけだ。
中身の問題は解決していないわけだ。
そのことに気が付いてから比企谷は戸惑う。
自分がしてきたことは”意味”がなかったのではないか、と。
カタチが変われば少なからず中身も変化するので、全く”無意味”であったわけではない。けれど、それが意味あるものになったのも、比企谷が”自分の意志”を考え始めたからである。ロジックでは割り切れないモノに気が付いたからである。
そうして彼はホンモノを求めるようになった。
ソレを求めることは、正しい事ではないかもしれないし、相手を傷つけることになるかもしれない。けれど、ソレを比企谷は求め始めた。正しいか分からず、存在するかどうかも怪しいものを。
こんな風に、他人を傷つける「正しさ」っていうものもあれば、自分を誤魔化す「正しさ」っていうものもある。
どちらにしても、「正しさ」は自身を駆動させるための推進力であって、縋るものではない。
ましてや救うためのものであるはずがない。
けれど、自分を加味した上での「正しさ」というやつは怪訝に扱ってはいけない。
それは「正しさ」というカタチを取っているが、その中身は彼自身の選択。
自分自身が思うモノ。願うモノ。祈るモノ。
相手にも届いて欲しい。
この気持ちを分かって欲しいという願い。
そして、相手と理解し合いたいという気持ちの表れ。
そんな「正しさ」ってのもあるのだろう。
●コンテンツとの向き合い方
結局、僕の中でどれくらい好きか、っていうか、僕がどれくらいこの作品を好きか……深井零という人間をどれくらい好きかっていうそれでしかホント、勝負できないので……まぁそれで、観て、「そんな愛し方じゃ生ぬるいよ」って言ってくれる方がいらっしゃるんだったら、まぁその批判は甘んじて受けるし、でも僕は僕の愛し方で、この作品と、この人物を愛すしかないな、と思ってますね、今は。
―戦闘妖精雪風 インタビュー 深井零役:堺雅人
私が語ることのできる瑞恵は、わたしから見た瑞恵の一面にすぎない。
だけど、それは、わたしにしか語ることのできない瑞恵自身の一部でもある。
―終わり続けるせかいのなかで
自分の愛し方が一番です。
他人の愛し方を無理に模倣しても、自分が辛くなるだけです。
他人のモノを利用するのではなく他人になることなんてほとんど意味が無い。
というよりも、そんなものではいつまでたっても満たされない。
自分だけの愛し方を確立したいのならば、好き好き大好き超愛してるくらいにならなくては駄目だ。
愛しすぎていないのなら、充分に愛していないのだ。
―好き好き大好き超愛してる
俺が一番あいつを分かってる、なんて傲慢なくらいでちょうどいいのだと思います。
そうすれば、いつか自分が満足できるようになるか、納得できるものが出来上がるんじゃないか。
●都合のいいモノしか見つからない
自分探しを自己の内面で決着出来る幸福な国だ。そんなやり方では、自分に都合のいい自己しか見つからないというのにな。
―終わりのクロニクル 至
これまで、ブログに挙げたものからそうでないものまで色々と考えてきたけれど、自己の内面だけで決着が付けられたものは大抵似たような結末になっている気がしています。
初めから用意されていたモノに至るまでのうねうねとした、うっとうしい文章が書き連ねられている感じ。
自身の内側を整理しながら、モノとモノをくっつけながら書いたりするときはそれでもいいのかもしれないが、そろそろ外側をキチンと意識するべきなのかもしれない。
内側だけではなくて、外側にある事実を交えながら書いていくこと。
そうしていかなければ、都合のいい結末ばかりを迎える結果になりそうである。
自分のために書く文章だからこのままでいい、とも思ったが、自分にとってより”意味”のあるものにするには外側の事実、所謂正しさを取り入れていかなくてはならない。
不都合な結末であっても受け入れるだけの勇気が必要。
そうでなければ、いつまで経っても同じところを回り続けることになる。
客観的側面を加えていかないと、自分が考える正しさに溺れてしまう。
以下は未来の私の為のメモ。
◆メモ帳より
「大切なものを箱の中に詰め込んで棺桶にしてない?」
「未来を感じながら生きるイマ」
「単体で美しい、関係性の中で美しい」
「first log」
「人は追われる生きもの」
「友人関係の寡占化」
「ビジネス文書と小説の文章」
「ストーリーを排除する」
「人生で一番大切なもの」
「現実と仮想」
「一話目の勢いと面白さ」
「刺激」
「子供の世界は自動化されている」
「SFとのファーストコンタクト」
「未来を想像する」
「文章が書けない」
「単純に考えて、と君はいう」
「カタチは意味を持ち得るか」
「アイマスは性格を引きずり出す」
「機能という評価軸」
「許容」
「俺ガイル」
「家族」
「自分を憎む、世界を憎む」
「綺麗な言葉で覆い隠して」
「自己啓発は答えを示す」
「キレイな言葉で飾った歌ならば」
◆没案
・中身の薄い作品
・比企谷八幡という人間
・知識を得ると不自由になる
・大人になるには
・弱い僕らの生存戦略
・桜庭玉藻の強迫観念
・原作をみろ
・悪とは何か
・ロジックでは満たされない世界へようこそ
・人は意志があるから
・自分探し
・段階的な物語の楽しみ方
・未来の先取り
・人とキャラクターと舞台装置
・仕組みを知らない僕たちは
・さよならピアノソナタ
・SHIROBAKOの夢
・普通を享受できない
・世界を終わらせるに足る理由
・セカイの最小単位は「セカイ」
・書けないセカイを書く方法
・好きに他人を介在させるか
・共通言語
ブログに上げなかった、上げられなかった記事を淡々と書き上げてみた。
これらにブログの記事を加えてみてみると、
今年のキーワード
「弱さ」「物語」「SF」「俺ガイル」「IB」「読者」「ぼっち」
コンテンツ
「IB」「俺ガイル」「アイマス」「人類は衰退しました」「BEATLESS」「さよならピアノソナタ」「ハーモニー」
こんな感じになるのだろう。
実際の期間としては、夏~現在の間になるので、2クール分といったところだろうか。
1クールごとに振り返るくらい書けるようになりたいものだ。
●備忘録
今年は、「音楽」が私の大部分を占めていたように思える。
さよならピアノソナタから「クラシック」を聞くようになり、また「洋楽」に関しても使用楽曲は触れてみた。そこから、知人の話から久しぶりに民族音楽を聞き、四月は君の嘘でもう一度「クラシック」に触れた。それからは、「BGM」を中心に聞き拡げていき、音楽関連の記事をいくつか追うようになった。こんな風に、音楽の幅を広げたのはまだ記憶に新しいことだと思う。それと同時に、音楽は文章化することが不可能だ、なんて風に感じたことも覚えている。
そうだな、私が書けないと判断した「音楽のセカイ」についてもいつか書けるようになりたい、というか書こう。
他には、物語を楽しむための私作りについてだろうか。
私が見れるのは作品の一面とはいえ、その一面をより広く、そして深くしていきたいものである。そのために、必要なことを以前は、伝える力として「文章力」と感じる力として「感性」なんてふうに規定したような気がする。感じることが出来て、そしてそれを表現できればいい、なんて考えだった。
「文章力」に関しては、書き続けることと、テクニックを身につけることによってどうにかしていきたい。編集一つで、伝わる意味もその衝撃も異なってくる。そういったものも身につけていきたい。
問題なのは、「感性」である。人間の嗜好は大人になると揺れ幅が小さくなる。そうすると、強化できるのは刺激を受け取る「脳」になるのだろうか。右脳開発だったり、イメージトレーニングを行うことで感性は鍛えられるのだろうか。なんにせよ、一段階先に進めるためには何かしらの気づきが必要だと考えられる。先は長い。
今年度の終わりにもこうして文章を書こう。
そのころには、終わりのクロニクルも読み終えているだろう。
それでは、終わりの先で。