huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

『言葉』に関するあれやこれやそれや

 

言葉は私で出来ている。
どこまでが私だろうか。

 

◆言葉と回路
言葉というものはそれに対応する「回路」があって初めて意味を創出する。
言葉そのものに意味は存在しない。
言葉に意味を付けるのはいつだって人間だし、価値を付けるのも人間だ。

回路とは、すなわち人間である。
人間の数だけ回路はある。その上、その回路は悪くなったり敏感になったり、特化したりする。
つまり、言葉との出会いというものは一回きりのものであり、それをもう一度読んで見ても同じモノを再現することは少ない。

だから、私達は一つ一つの出会いを大切にしなければならない。

言葉は回路を駆け巡り、自己増殖する。
言葉の原動力は人の心であり知恵である。
私を使って言葉は回路を増築し、強化する。

普段から良く使っている回路に関しては自身もソレをよく感知することが出来る。
私の場合だと、SF関連の話とか、言葉とか、世界とか、永遠とか、友情とか、そういった回路が普段良く使う、良く駆動する回路であると感じている。
だから、何かの作品を見ていてもその回路を通して出来事が想起させられる。
くだらなそうに見える一言が自分の回路回るなかで増殖して一つの文章を構築していく。
そして時には、世界を構築するに至ることもあるだろう。

言葉の面白いところは、その過程で普段使っていない回路を刺激されることがあるという事だ。
言葉を道具のように使っている人間にはそれが分からないし、感じられない。

 

◆言葉は自己増殖する
『言葉使い師』で、【言葉は自己増殖する】と書かれている。
文章を書いている人間はなんとなく分かるかもしれないが、言葉が次の言葉を引き寄せて、その繰り返しで文章が構築されていく、あの感覚。別の言い方をするなら【筆が走る】だろうか。勝手にキャラが動くなんてのも似たようなモノだろう。

本来は、こうして言葉は自己増殖していくのだけれど、我々はそれを制御(コントロール)しようとしてしまいがちである。

言葉の原動力は人の心であり知恵である。
その人がひた隠しにしている感情から、頭の隅に追いやられている知識まで勝手に食い散らかして自己増殖をし続けていく。
それを傍から眺めているのは精神的な苦痛を催すことがある。
しかし、それを無理やり制御しようとするとつまらない文章が出来上がる。
【言葉が死んでしまう】のだ。

書評でもレビューでもいいが、「褒めることしかしない」という人が居る。
作品をマイナス評価に傾けようと動いている言葉を押しつぶして、プラス評価だけに言葉を動かしている人が居る。
それは、言葉を騙しているのかもしれないし、自分を騙しているのかもしれないが、随分とつまらない文章を作り上げることになる。ソースは私。

無理に綺麗なカタチに納めようとするとどうしても言葉の動きを制限することとなってしまう。

言葉は自己増殖するものだから、その声に耳を傾けて、次の言葉を聴けばいい。
それが難しいのだけれども......

◆言葉を道具として使う

「気持やアイデアやある出来事を伝えるために言葉を使うのは初歩的な事で、簡単だ。とりたてて高度な技術はいらない。つまり、言葉を道具として使うことは。そのとき言葉は生きてはいない。そう、たしかに道具なんだ。わたしは言葉をそんなふうに使いたくない。書くときにはね」

―言葉使い師

論文やレポートといった文章を書くのは、言葉を道具として使っているということだろう。
それは相手に「意図」や「考え」を伝えるために書く文章だからだ。
それは事実を伝えるための文章だからだ。

さて、それではブログという媒体は言葉をどのように使っているだろうか。
人によって異なる、なんていうのは当たり前なので置いておくとしよう。

ブログはなんのためにあるのか。
お金が欲しいとか、有名になりたいとか、ネットフレンドを作りたいとか、その理由は いくらでも考えることが出来る。手段も千差万別である。
だから、その動機によって、言葉の使い方が異なるという事はなさそうだ。

では何によって言葉の使い方が変わるのか。

伝える意図がある事は間違いない。そうでなければ表に出す必要は無いから。
しかし、伝達をするために使っているようには思えないようなブログも多く存在している。
作品を最初から最後まで味わってから自分が感じた世界を表現する……世界を再構築するような人もいるし、自分を強く惹きつけた言葉を増殖させて文章を作り出すような人もいる。どちらにしても、自分を通してから世界を再構築する、というのは変わらない。

だから、そういう人たちは言葉を道具のように扱ってはいないのではないかと思う。

 

◆言葉で世界を構築する
それではどうしたらブログでそうしたことが出来るようになるのだろうか。

一つは言葉が望むままに筆を走らせるのがいいだろう。
言葉を導くのではなくて言葉に連れて行ってもらう。
そうすれば、言葉が何かを構築してくれる。

一つは回路を使い続ける事だろう。
小説にしろ何にしろ、世界に触れる時は自身の回路使って再構築する癖をつける。
最初の内は、出来事をそのまま書いたりするぐらいでもよいだろう。
次第に、事実だけでは無くて”意味”を注ぎ込んでいけばいい。
そうすれば、言葉が回路を強化・増築し世界を構築できるようにしてくれるだろう。

今思いつくのはそれくらいだろうか。

もちろん、これらは物語という世界を構築するものであって、直接ブログに繋がるものではない。
しかし、言葉を道具以上のモノとして使うヒントになるのではないかと思う。

◆作品感想

●言葉を使わずに伝達できる社会で浮き彫りになる【言葉】
情報伝達の手段に言葉を用いる必要が無く、自分が想像しているものをそのまま伝えることが出来るようになった世界。
そんな世界だからこそ、【言葉】が持っている力やその特殊性をまじまじと見せつけられる。

●一行目がその世界を規定する
「それはちょうど、混沌とした不安定な状態にある、ある溶液にあたえられる衝撃のようなものだ。第一行という刺激がそこに入ると、溶液はその一行に触発されて結晶化をはじめる。」
作品における一行目の重要性が指摘される。
物語に持っていた期待や想像がこの一行で規定されるわけだ。
ちなみにこの作品の一行目は【そう、きみのことならなんでも知っている。】

この一言で方向性が規定される。
その作品に乗せられていた混沌(期待、想い、想像等)に指向性が与えられて世界としての構築がなされる。

この一行目で思い出したのが「さよならピアノソナタ/赤坂アカ」である。
淡い感じの少女の横に据えられたさよならピアノソナタというタイトルから、
この作品は誰かとの別れについて描くのだろうか、
もしかしてこの少女だろうか。
ギターを持っているようだが、ピアノソナタとはどういうことだろうか。
なんて想像が始まる。この状態が混沌だ。
その次に与えられるのがこの言葉だ。

ベートーベンピアノソナタ第26番『告別』
別れを悼むこのピアノソナタには……ちゃんと告別(さよなら)の続きがある

 ―さよならピアノソナタ 1 作画:赤坂アカ 原作:杉井光

 

この言葉と同時に、三人がバンドをする姿と、背を向けた少女の姿が描かれる。

それによって、この作品に乗せられた想いが指向性を得て、結晶化させられる。
曖昧だった世界がカタチを得て構築される。
私の中に。

一番最近のアニメだったら「アイドルマスターシンデレラガールズ」だろうか。
彼女たちが抱える期待・希望・夢とかそういったものを「お願い!シンデレラ」とステージの場面によって我々に示す。
彼女たちが立っている場所、あるいはこれから立つ場所がどんなものであるのか。この物語のカタチを示している。

そういえばSHIROBAKOも良かったな。
フムン、一行目を見ればその作品の良し悪しが分かるモノなのかもしれん。
それについて今度書いてみようかしらん。

 

●言葉は容器を壊して自己崩壊する
「わたしはその結晶化が容器をぶちこわして自己崩壊をするのを防ぎつつ、言葉が次の言葉を生んで増殖をはじめる、その言葉を書きとめるんだ。」

一度言葉の任せるままに同じ内容を書いてみると、見事に自己崩壊した。
出だしは同じだが、言葉の性質に動いて、暴力性に繋がり、共通言語の話に飛んで、共有感覚の話になり、二次創作の話になるところから飛躍が続いて、最後には愛の話になっていた。
見事に枠組みをぶちこわして自己崩壊する様が見て取れる。

それで、今回は自己増殖した言葉の中から、自分が強く出ているものや話から外れるものを切り離して書いてみることにした。

これも実験です。
これが良いのかは分かりませんが、もう少しこの方法でやろうと思います。

 

●きみはマリオネット。わたしが操る。
この一言でスッと引き戻されるのが好きだ。

 

●言葉に対する感性・認識
上述した【言葉】に対する感性・認識といったものは普遍的ではないにしろ共通点を見いだせるものなのだろうか。
作家によって異なってくるのだろうか。

私の【言葉】は神林長平に大きく影響を受けている。
他の人はどんなふうに【言葉】を捉えているのだろうか。
コミュニケーションとしての言葉から、物語としての言葉まで大きく幅はあるが、知りたいものだ。

 

◆終わりに

「しかしどんなに言葉を拒否しようと、それは消えない。言葉はもう一つの現実だ」

 ―言葉使い師

 

言葉は私のものであって、私のものではない。

言葉は人間の道具であって、人間の道具ではない。

言葉とどんなふうに付き合えばいいのだろうか。
私と言葉の関係は良好だろうか。

この先も付き合っていく言葉と私は上手くやれるだろうか。
これから先もよろしくお願いします。

 

それでは、言葉が導く世界の先で。

 

言葉使い師 (ハヤカワ文庫 JA 173)

言葉使い師 (ハヤカワ文庫 JA 173)