huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

記憶と思い出と個人

 

人生とは記憶である

 

常識がこれまで集めてきた偏見であるように、人生もまたこれまでかき集めてきた記憶であるのかもしれない。
記憶を失ったとしたら私は私でいられるのだろうか。

◆記憶と思い出
記憶と思い出は似ているけれど、少し異なっています。
記憶は事実を積み上げたもので、思い出は感情を積み重ねたもの。

◆思い出を失う
物語で良く使われるのは「思い出」を喪失するお話。
少し前のだと、一週間フレンズ。
あの作品は、思い出の代わりに事実を積み重ねる事で、一週間ごとに訪れる局所的な記憶喪失を誤魔化していた。(最終的には思い出を積み重ねられるようになったと思う。)

私は記憶が個人を個人足らしめていると考えている。それは今も変わっていない。
だから、彼女は一週間ごとに死んでいるのだと考えていた。

作中では、「日記」という手段を使って、それをカバーしているようだった。
けれど日記で行えるのは情報の獲得だけであるし、心に残るのは「事実」だけなのである。
例えば、我々は昔の事を表現するときに、「もう」とか「まだ」とかそういった表現をする。

「もう大人になったのか」
「まだ3年しかたっていないのか」

そんな風に、自分の中での思い出がどれだけ「遠く」にあるのかを感覚的に把握することが出来る。その思い出にたどり着くまでに色々な思い出が積み重なっている人は「まだ」と感じるだろうし、その思い出が鮮烈であるならば「もう」と感じるだろう。

けれど、彼女の思い出に対する感覚は「事実」から想像するしかない。
パソコン上にあるフォルダに付けられた年月を見るように、「思い出」という事実を見返す。

「アレは、三年前の出来事だったから……『まだ』でいいかな?」
「あの出来事は、10年前だから……『もう』でいいかな?」

そんな風に、感じる事しかできない。

思い出を同じ軸を遡って感じるのと、思い出を俯瞰して感じるのとでは大きな差がある。
どうあがいても彼女と同じ時間を積み重ねる事は出来ない。
心に何かを残すことはできない。

つまり、記憶を定期的に失ってしまう彼女は同じ思い出を共有することが出来ないのである。
それは同じ時間を生きる事ができないということでもある。

同じ時間を過ごしたとしても、未来の彼女にとってそれはただの出来事である。
その瞬間における感情とか、想いとか、そういった色んなものを全部持ったまま一緒に生きていくことが出来ない。
彼女は一週間ごとに死んでいるんだ。
そして、与えられた『日記』を自身の過去として生き続ける。
それは呪いのようだと私は思う。

感覚的にはWIXSSOSの小説の子の台詞が近い。

他人の夢に押しつぶされ、他人として生き、やがて元の自分を失ってゆく呪い
―WIXSSOS

他人の日記を読まされて、これがあなたの過去なのです。なんて言われて、その通りに生き続けなければならないなんてどれだけ辛い事だろうか。
過去ではない今の私の居場所はどこにあるのだろうか。
私は私として生きているのだろうか。

……本編では、日記を見返したりしていく中で失った記憶を感じている場面があり、最終的にはある程度の引継ぎが出来ていたと思う。

しかし、記憶が一週間ごとに完全に消え去ってしまうのだとしたら、『過去の私』という他人を演じる『今の私』はどうなってしまうのだろうか。

◆過去の記憶失って
事実に感情が重なることで思い出となる。
記憶を思い出として取り扱えない時、人は不安や空虚さを感じる。
それは、この人生が私のものである、という実感が無いからだ。

自分の事が他人事。

そうすると、自分を感じる、生きていることを感じるために何かしらやらかすんじゃないかな。闘いの中に身を投じてみたり、危険を犯してみたりさ。
私自身が私を認めてあげられない時には誰かの承認が必要となる。
君は今のままの君でもいいんだよ、なんて言ってもらえれば私として歩み始められるのだろうか。まるで自分探しだな。まさにそうか。そうなのか

王道展開ならばそこから、「記憶を取り戻す旅」が始まるのだろうか。
記憶を取り戻すことでしか人生を感じられないから、どこかに忘れてしまった記憶を探しに行く。大抵の場合、幸せを投げ捨てて真実と向き合ったりする。辛い過去なら無かったことにしてしまった方がいい、なんて思ってしまうけれど、それでも求めずにはいられないのだろう。

そんな風に、『思い出』っていうものは、「私は私の人生を生きている」という実感に繋がるものである。それを失ってしまえば、個人を失ってしまう。事実しかなければ、他人の人生を生きている実感ばかりが積もっていくだろう。

◆過去を積み重ねた回路
前回、「回路とは人間である」なんて言い方をしたと思う。
この回路っていうのは、当人がこれまでに積み重ねてきた趣味とか嗜好とかに反映されるもので、過去の経験や体験からこれは形成される。
記憶喪失関連で言うなら、「癖」とか「仕草」とかそういった場所に表れる個人みたいなものだと思ってもらえればいい。

この回路は認知にも影響を与えている。
個人の恐怖体験から、特定の色・形に対する恐怖が形成されることがある。例えば、赤色を見ると、炎が連想されて体が動かなくなるみたいなもの。
これは、感情的な出来事以外にも関係する話で、頭に書いた「常識は偏見の集合体」みたいな話もこの回路に還元される。色々な事実を組み合わせることで、こうした方が良いとか、これは触れない方が良い、とかそういった判断を下すようになる。

つまり、回路は事実からも形成されているし、感情からも形成されているのだ。

この回路なんてものは肉体にも根付いているものなので、記憶喪失ものではこうしたところに解決に糸口が隠されていたりする。または、記憶の乗り換えみたいな話でもそういった描写がなされることもある。

過去を積み重ねる事で形成された回路は、その個人にとっての常識であり、抗うことのができない本能でもある。
私の中にある、「○○が好き」「○○は嫌い」みたいな嗜好もこれまでの経験や知識から組み込まれた回路による反応である。過去の素敵な体験を思い出して、みんなが事実として認識しているから、そんな風に集められたものが回路を形成し、嗜好(≒思考)を形成している。

◆人生とは過去の堆積である。
記憶とは、過去である。過去の堆積である。
これまでに行ってきたことや感じてきたことが私という人間を作っている。
過去がその個人の主義・思想を形成してきた。
つまりそれは、個人が過去から続く連続性の中に生きているということである。
過去があるから今があって、今があるから未来がある、みたいな。

過去の出来事が今の個人を形成している、なんて風に考えることが出来てしまう。
そして、その考え方は多くの人が持ち合わせている。

でも今の先にこれからがあるんだもん。今がダメだとこれからは良くならないよ
―SHIROBAKO 絵麻

 

はじめがかんじん つーんだつーんだ

―ごちうさ OP

 

こんな風に、過去が今を規定するという発想は多くの人が持ち合わせているのだ。
『過去が』というフレーズが気に食わないならば、『現在が未来を規定する』なんて風に置き換えたらいいかもしれない。


連続性の中に生きる僕らは、過去が良くないと、そして今が良くないと、未来は良くならない。初めにこけてしまえば、後はそのまま転がり落ちるだけだ。クラス替えの初めに行われる自己紹介で大まかなクラスカーストが決められてしまうのと同じだ。宇宙人や未来人や異世界人や超能力者を求めた自己紹介をしてしまえば、その評価は後までついて回る。ましてや排除が好きな人類からすれば格好の餌になるだろう。

そういうことを自覚しているから、過去を変える物語とか、別の人生を生きる物語とかに縋ってしまう。過去を変えて・失くしてしまう物語を求めてしまう。

◆人は変われるか
人生とは記憶である。
人生とは過去の堆積である。
過去の延長線上に今があって、今の延長線上に未来がある。

僕らはどうしようもないくらいに過去に縛り付けられている。
忘れていた傷は未来に牙をむき、過去の体験が今の行動を規定する。

変える事の出来ない過去を積み重ねてきた僕たちは変わることは出来ないのだろうか。

君はどうせ君だよ
―四月は君の嘘

 

人は絶対に変われない
―インスタントバレット

 

 

私は私以外に成りたくないとかそういった感情論は別にして、私はどこまでも私であってそれは変わらない、ということは在るのだろうか。

過去を、記憶を、思い出を、無かったことにしない限り、人は変われないのではないだろうか。つまり、人は変われないだろう。

今まで積み重ねてきたすべてを台無しにすることは、生きているかぎり不可能だ。
出来る事と言えば、過去を忘れたり無かったことにするか、新しい価値観を構築して自分を補強していくぐらいの事だろう。

「回路」という話し方をするならば、都合の悪い回路を錆びさせてしまって、都合の良い回路を活発化させるくらいのことだろう。より強い刺激でもって私はそんな人間であると思いこむくらいしかない。

新しい回路が思考を支配することがある。
悲劇的な体験とか、そういったものが個人を変えてしまうことがある。
体験が個人に強烈な回路を構築してしまうという事だ。

そんな風に新しい回路を増築・強化して別人風になることはできる。
けれどそれも延長線上にある私でしかない。

構築されてしまった回路は変わらない。
けれど、新しい回路を組み立てて変わることはできる。
回路間の優位性を調整することが出来る。

過去が今を規定するように、現在もまた未来を規定する。
これまでの私を変える事は出来ないし、無かったことにすることはできない。
けれど、現在を積み重ねる事で、ちょっと良い私にはなれるかもしれない。

 

 

 

 

◆― ― ―
SF的な技術が進歩すれば、記憶のコピペやデリートが出来るようになるのだろうか。
そうすれば、なんの苦労もなく、人は何者にでも成れるようになるというのに。
そうでもなければ人は変われないだろう。

ちょっとやそっとでは人は変われない。
天才を見つければ「天才は良いよな、努力しなくて済むんだから」といい、努力する人を見れば「努力できるのも才能だよな」という。こんな風に、人は見方を変えて、自分の在り方を否定せずに保つことが出来る。変わらずにいられる。

過去の自分を殺すことは出来ないし、新しい回路を構築するのも苦労や苦痛を伴う。
むしろ、苦痛でもって回路を増築した方が良いのかもしれない。
そうでもなければ人は変われない。

変わったと思っている人は過去を忘れただけだ。
過去の延長線上にしか僕らは居ない。

生まれた時から人間性は決まっているなんて言わねえよ
だけど何も知ることもなく
何も気づけない人生を通っちまえば
ほれみろ 人を傷つけることしかできない俺らだ
ああ
変わりたい
そう思うだけで変われたのなら
どれだけ幸せだっただろう
―インスタントバレット 二巻 やさしくなりたい、優しくない人々

無条件に人間性を変えてしまえる技術が開発されるのはいつだろうか。
自身の回路を改造してくれる技術が開発されるのはいつだろうか。

そうすればみんななりたい自分になれるのにさ。


それでは、変わり映えのしない未来の先で

 

言葉使い師 (ハヤカワ文庫 JA 173)

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