huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

少傷論

少傷論

◆まとめ
 要するに、『向き合わないとダメ』っていうだけの話。
 待っていても空から宇宙人は落ちてこないし、
 手を引っ張ってどこか違う場所に連れってくれる女の子は現れない。
 自分のココロと向き合うことは「傷」を誘発する行為だ。
 けれど、「傷」の避け方ばかりが上手くなっていくと、
 本当に欲しいものは手に入らなくなる。
 ただ、それだけの話だ。


◆少傷論
 傷の少ない人生を送ってきました。
 恥をかかないように、間違いを犯さないように、目立たないように、人眼を避けるように。

出来る限り、傷を負うことを避けて生きてきました。

彼の文豪は恥の多い人生を送ったという。
「恥が多い」なんていうのはどれだけ強い人間だったのだろうか。
どれだけの傷を負ったのだろうか。私には到底考えが及ばない。

「傷」というものは行動をすることによって負うものです。

例えば、小説家になることを夢見て、とある賞に応募してみて一次落選。
例えば、スポーツ選手を夢見て、県大会予選落ち。
例えば、好きな人をモノにしようとして、告白して振られる。
そんな風に、多くの人は生きていくうえで「傷」を負って生きています。
それは、何かを得ようとして足掻いた証であり、何かを選択したという証でもあります。

もし、私のように「傷」を負ったことがない人間が居るとするならば、
その人はとんでもない化物か、私のような臆病者なのではないでしょうか。

少しばかり言い訳をさせていただくとするならば、昨今は「傷」を避けやすい環境が形成されています。
リスクヘッジが容易になったするのが妥当でしょうか。
失敗を糧とせずとも、正しい手法を取ることが出来るようになってきました。

「○○必勝法」「○○メソッド」なんてものがその代表例でしょう。
失敗をしながら自身の戦略を打ち立てていくというのではなく、
他者の成功から自分の戦略を構築できるようになっています。

試行錯誤をするまでもなく他人の良いものを真似することが出来るようになったことで、
大きな失敗をすることが減りました。

また、他人のやり方を真似する事で、自身の失敗ではなく
そのやり方に責任を転嫁することが出来るようになった。

行動の責任は自身にあるというのが当たり前なのかもしれませんが、
余所に責任転嫁できるだけの余地が出来てしまったというのも、
「傷」の自覚を避ける要因となっています。

もちろん、こういったメソッドといったものを有効活用していける人もいるでしょう。
けれど、その背後に自分で戦略を構築する事を失うということが起きており、
それは失敗と向き合う機会を喪失しているともいえます。

この他にも、インターネットを利用すると「その場をしのぐ」手段が用意されています。
それは例えば感想文だったり課題だったり何だったりと。
安全な立場から有益な情報を獲得できるようになりました。

自身が望むものの多くは「無償」でかつ「安全」に手に入るものであるという錯覚すら起きているかもしれません。
それぐらいに、自分がリスクを冒す必要が減ってきている、ということです。

昨今の特徴としてもう一つ上げるとするならば、「悪意の伝達力」が上がったという事でしょうか。
これまでは人を介さなくては広まらなかったことも「拡散希望」の一言で
多くの人に情報を伝えることが出来るようになりました。

そしてそれは、簡単に悪意を拡散することが出来るというだけでなく、
他人が晒されていることを目の当たりにする、ということでもあります。
以前は無関係であった場合も、これからは傍観者にさせられるようになる。

悪意が文字という形をとることで、持続性を増し、多くの人の目に留まるようになる。

これにより、槍玉に挙げられる恐怖が伝染する。
失敗の危険性が認知されるようになる。
行動を恐れるようになる。

 

以上の内容は、ある人からすれば「要は勇気がないんでしょ」の一言に還元される出来事でもあります。
もちろん、勇気なんてものがあったならば、傷を負うリスクを取ることが出来たのでしょう。
環境のせいにするのはダメかもしれませんが、

ハードルが上がってきている

というのは事実だと思います。
それに、「勇気が無い」なんてのは傷を避けてきた人間が一番知っている事でもあります。
挑まなくてはいけない場面で挑むことが出来ない。

 

問題なのは、「逃げてきた」という自覚がないことにあります。
傷を避けるなんてことは事実多くの人が行っている事でもあります。
自ら進んで傷を負いたいなんて人間は、自己啓発本にやられた人間ぐらいじゃないでしょうか(傷を負ってでも手に入れようとするのではなく、傷が目的になっている人間なんておかしな話です)。

逃げてきたという自覚がない人間は、「要領がいい」と勘違いしてしまいがちであります。
赤点になったことがないとか、単位を落としたことがないとか、そんな風に上手く受け流すのが変に得意なせいで、
「逃げた」のではなく「得をした」なんて風に考えてしまうわけです。

そういったやり方は生きる事を容易にしますが、壁にぶつかってからの人生は厳しいものとなります。
ここでいう壁とは努力が必要とするものです。
高校や大学で堕落する人間はこういった壁に破れたということです。


こうした壁を自覚した辺りで、自身は挑むことを避けてきたのだと、実感することになります。
そしてそのころには、「向き合うこと」が苦手になってさえいます。
それは、自身が抱える願望や夢、問題や苦難、本心や希望、そういったものと向き合うだけの気力がなくなっているわけです。
そしていざ欲しいものを、求めるものを自覚したときには行動することが難しくなっているわけです。
そして年齢を重ねるにつれて間違えることが出来なくなってしまう。そこから先は妥協の人生が始まっていく。


結局、向き合うことが出来なかった人間は何も獲得することなく人生を終えていく。
世界はもちろん、周りの中ですら何者にもなれないまま人生を終えていく。


そうした人は、自分のスキを内側に閉じ込めて、外側に出すことをしない。
外に放たれた「スキ」は誰かの心に受け止められて、その代わりに誰かの「スキ」を自分の心で受け止める。
「スキ」は他人を必要とする。誰かがいるから「スキ」は承認される。
その代わり、誰かを傷つけるリスクや自分が傷つくリスクを負うことになる。

「スキ」を表に出さない限り、何者にもなれず、何物も手に入れる事は出来ないが、自分が傷を負うことは無くなる。
透明な人間であれば、安全に生活することが出来る。その分、誰かを傷つける事になるのだけれど。


あぁ、どうして傷の少ない人生を歩んでしまったのだろうか。
もう、この世の中に傷を負わせない場所などなくなってしまったというのに。
昔のインターネットは仮想現実でありえたが、今のインターネットは現実の延長線にしかない。
私ではない私の人生を生きる事の出来る場所など、そう錯覚することができる場所などこの世の中には無い。
だから、僕らは世界の端っこで息を吸う。
誰にも迷惑をかけず、誰にも迷惑をかけられないように。