huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

リアル多忙という欺瞞

 

「リアル多忙」


実にいい言葉である。
ネットなど現実に付随するおまけであって、リアルに従属するものでしかないという感じがビンビンしてきてとてもいい。加えて、ネット上の誰もが気にもかけない「現実」を匂わせる事はささやかな優越感と、俺リア充感を漂わせる。
私も一度でいいから使ってみたいものだな。
リアル多忙故更新できず、なんて。

実際問題、忙しいからといって何かが更新できないという事はないのだろう。たとえ忙しかったとしても、デレマスは観るし、SHIROBAKOも観るし、ゲームだってする。そんなことをしていながらも「忙しい、忙しい」と言っているのである。もちろん、それらを削れば、忙しいからは解放されるかもしれないが、そうしたことは考えないし、考えても行動には移さない。
だから、往々にして「忙しい」なんてのは体の良い断り文句なのである。忙しいから飲みには行けないとか、忙しいから参加できないとか、そういう言葉を多く私は聞いてきた。【参加すること<疲れる事】の構図がもう成り立ってしまっているんだろうな。本当に参加したければ、忙しくてもどうにかして参加するもの。お金が無くても参加するもの。

つまるところ、ブログを更新できない言い訳に「リアル多忙」なんて使うのは、先に述べた様な【リアル>>|超えられない壁|>>ネット】なんて構図が成り立っているわけだ。
 
これは私の志向するところではない。
私にとってブログとは文章を書く場所である。それを蔑ろにするということは、「書く」という行為が私から切り離されるという事である。私と結びついていたはずの言葉がこぼれ落ちていくという事である。

文章というものが私にとって「時間つぶしの延長線」にあるのか、「私」にあるのか、どちらなのだろうか。

まだ私の中に文章が結びついている、という感覚が強い。
しかし、「まだ」なのである。このままの関係性ではどこかで途切れてさよならしてしまいかねない。

確かな関係性を構築できるのはいつだろうか。
どれだけの文章を積み重ねれば、言葉が私と結び付けられるのだろうか。
忙しさに埋もれてしまわない、文章を私の中に見つけたいものである。

そのためには、書き続けなければならない。
紙に、ブログに、世界に、言葉を投げかけ続けなければならない。

と、こんなところで、初心表明を終わりにする。
それでは、また。