huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

意味ではなく、価値を求める。

巷ではラノベ論争が流行っていた。

もうそろそろ落ち着いた頃だと思われるので、臆病な私は満を期して書くこととする。

 

以前の私はラノベというものが嫌いであった。
平易で安易でテンプレで安直で、それでいてありふれたモノだけで埋め尽くされているラノベが嫌いであった。(当時の私はラノベを読んではいなかった)
だから、ラノベなんてものに「価値」はなくて、それを読んだところで何の「意味」があるのだろうかと思っていた。

その時の私は「古典にこそ神は宿れり、東野圭吾なぞ唾棄すべきものである」という思想に取りつかれていた。いわゆるなんちゃって意識高い系というやつである。消えるべきである。
そのため、読んでいる書物は古典とか哲学とかそういったものを買い集めては読んだ振りをしてみたり、買いもしないのに神保町に足を運んでみたりしたわけである。当然、中身の理解はしていないため、知人に「どんな内容なの?」と聞かれれば、「簡単に纏めるのは無粋である」と返していた。

こんな話をして何が言いたいことは、【ラノベにはそれを読む事(正確には持つ事)に価値が生じていない】ということである。

古典文学を読んでいる。⇒古きを愛する良い人間
哲学を読んでいる。  ⇒よく分からないけどすごーい(笑)
ラノベを読んでいる  ⇒きんもー☆

適当に書いたがこんな感じだろうか。
古典とか、哲学とかはそれ自体に「価値」が存在している。
対してラノベは多くの人が認める「価値」など存在していない。

要は、ラノベを持っていてもステータスにはならないということだ。

だから、あんなにも馬鹿にされる。
曰く、読んでも「価値」が生じないのに、どうして読むのだろうか。
曰く、古典文学ならば所持しているだけでも「価値」が生じるというのに。

そういうわけで、「価値」が無いラノベは馬鹿にされてしまう。
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補足
 最近は、趣味の領域を超えて、ラノベにもステータスが求められるようになった。価値が求められるようになった。(マーケティングの嫌いがあるが「累計部数」とかは顕著な例だろう。)
 アニメの方が分かりやすいだろうか。BDの売上とか、監督とか、脚本家とか、人気度とか、そういったものが取り上げられるようになってきた。ネットの記事を検索すれば、オタクならば観るべきアニメ○選みたいのもあるんじゃないだろうか。
 つまり、コンテンツが大勢の目に晒されることによって、「価値」が生じてくるようになってしまったわけである。そして、それに惑わされやすくなってしまったわけである。
 趣味であり、私にとって「意味」があればよかったのに、いつのまにか皆が認める「価値」を求めるようになっていった。
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これが理由の一つではないかと思っている。
自分の中に生じる「意味」よりも、世間が認める「価値」を追い求めた結果、
ライトノベルは「価値なきもの」として処理された。
もちろん、こうした理由ではない人の方が多いかもしれないが、こうした人間もいるのではないかと思う。
「意味」よりも「価値」を求めてしまう人間が。