huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

無口は無知

 

無口は無知であるからだそうだ。
男は黙って背中で語るものであるそうだ。
つまり、男は馬鹿であるべきなのだ。(暴論)

 「無口は無知の象徴である」なんてことは、多くの意識高い系サイトで目にする言葉である。コミュ力、人脈、ブレストを至上命題とする彼らにとって無口である事は無知であり、罪なのであろう。
 しかし、実際のところ無知であると無口になってしまうものだなぁと実感しているのが今日このごろのことである。通常の会話にしてみても、会議っぽいものにしてみても無知な人間はなかなか言葉を発することができないものである。その理由としては、知らないから何を話したらいいのか分からないとか、自分が知っているという自信がないということまで色々とある。
 オタクが自分の領域を展開すると話が止まらないのは、その対象について知り過ぎているからではないだろうか。知っているから、そのことには自信があるから次から次へと言葉が飛び出してくる。
 つまり、無口は無知なのである。

 問題なのは、ここから先の話である。
【どうしてオタクはコミュ力が低いのか】ということだ。
 「オタク=コミュ障」の構図を作ると、いろんな人から文句を言われるかもしれない。そういう時は、オタクを私(=不在)に置き換えて読んでいただければよい。

仮定:コミュ障は無知であるから起こる問題である。

 無口は無知であり、無知が無口であるならば、会話をうまく展開することができないのは無知であるからではないだろうか。

 通常の会話において、普通人が知っていることを、オタクである人間は知らないから、彼らと同様の会話を展開することが出来ない、という説である。
 気になるのは、両者の間にある「知識の差」である。
 純粋な経験値の量でいえば、オタクだって負けてはいないはずだ。数百の女性を落とし、数十の世界を救い、幾つもの難事件を解決してきた。そして、時には悪逆非道の限りをつくし、世界の敵になったことさえあるだろう。仮想世界での経験値がどれだけ現実の経験値に反映されるかは分からないが、膨大な量の経験を継続して獲得しているオタクが現実の人間に経験値で大きく差を開けられるものではない、と考えられる。むしろ、オタクの方が幅広い経験を獲得している、とさえいえるだろう。

 しかし、こうした経験値が直接コミュ力には繋がらないのが現実である。無知であることは無口であっても、有識であることは会話上手にはならないのかもしれない。

 会話をするためには、何かしらの「特別」な経験が、知識が必要なのである。

 中途半端にコンテンツを消費する消費豚であるオタクに欠けているのは経験値ではない。

 【欠けているのは自分自身の物語である。】

 コンテンツの間を漂うばかりで、自分自身がどこにもいない。
 だから、相手はどこにもいないあなたに共感する事も、理解することもできない。
 コンテンツに影響されて、迷子になっても帰ってこられる「自分」がない。
 自分の物語を生きていない感覚、自分が世界の中心にいないような感覚。

 もう少し雑な言い方をするならば、生きていないような感覚だろうか。

 戻ってくるべき(戻ってきてしまう)自身の「物語」が無いから、会話が上手く出来ないのではないだろうか。自分と結びついたモノが無いから話すことが出来ないのではないか。

 コミュ障なんで確かなことは解りませんが、欠けているとしたらこういうところなのかなぁ、と、ふと思いました。