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huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

個性の出し方すらも無個性な僕等は

在り方

 

「学校は均一化された生徒を作る工場だ!」
「僕らの個性なんか考えてなんかいないんだ!」
「社会の歯車を作る工場になんか通ってられるか!」

 

今のご時世、社会の歯車になることですら難しくなってきているというのに、若い時にはそういった事を考えてしまいがちです。
学校教育では個人の良さを拡張・強化することなんてできやしないと考えるわけです。

個性を市場とするのは、学業という場で優位性を獲得しえなかったから。もしくは、その他の場で獲得しえなかったからこそ、そうした「サイダネ」のようなものに希望を託すわけです。
まだ表出していない個性があるというのは学生の私にとっては希望であり、救いであった。
私が悪いのではない、それを見いだせない社会が悪いのだと。

それじゃあ、貴方の個性は何か、なんて言われると、何も言えないのが現状です。
それは今になっても変わっていません。
私の個性などいまだに分かっていない。

そういうわけで、
今回は、「個性」とか「均一化」とかそういった話で考えていきたい。

個性が必要だと思ったのは、いつだっただろうかと思い返すと、学生の時はものすごくそれを欲しがっていたように思います。
個性=承認に繋がっていたように考えていたのだと思います。ユリ承認!!
集団に属するためには「個性」が必要であって、そのためには私は変わらなくてはいけなくて、「個性」を手にすることが出来れば私は無敵になれるのだと。

らんダンのカナちゃんによると、個性は滲み出るものであるそうです。
だから、無理にアレコレして表出されるものは個性とはまた違ったものになります。
まぁ、そういっても何かしらの「キャラクター」が欲しいのならば、手品とかそういった類の「特技」「能力」を身につけた方が良いという話だ。

しかし、どうして私は「個性」なんてものがこの世の中に必要だなどと考えたのだろうか。

◆どうして「個性」が必要なの><
個性はどうして必要か。

アイデンティティの証明とかそういった問題とは別で、『承認されるだけの何か』を当時は求めていたことから、集団に入るためのパスワードとか、キーアイテムみたいに「個性」を考えていたように思う。

「個性」
それを持っていることで、他者に承認される。
それを持っていることで、集団に属することが出来る。

この個性を別の言葉にいいかえるならば「特別の証」とするのが良いだろう。

私個人の話になる。
空想の世界並みの体験をしたいとするならば、それに見合うだけの個人が必要であると考えていた。
つまり、勇者になるには勇者としての私が、魔王になるには魔王としての私が必要であると考えていたのだ。
逆に言えば、勇者足りえれば勇者としての体験が、魔王足りえれば魔王としての体験が得られると考えていた。

そしてそれは、特別でなければ特別な体験はできない、という考えに繋がった。

特別な人間でなければ特別なことは無しえない。
特別な人間でなければ世界の中心に立つことはできない。
そう考えるようになったのである。

◆主人公は特別な存在か
主人公は往々にして特別な存在である。
「主人公補正」なんて言葉があるくらい、主人公は優遇されている。
それは例えば血筋だったり、能力だったり、なんだったり。
大抵のばあい、主人公は何かしらの「特別」を持っている。

こうした主人公への「特別志向」はネット小説によく表れている。
主人公を取り巻くすべての要因が「特殊能力」に裏付けられている、なんてことはよくあるものだ。その能力はどこかの軸で確実にトップに近いものがある。
何故ならば、「能力」ほど特別を象徴しやすいものはないからだ。

そういえば、最近のアニメでも盾を召喚しているのがあった。あんな感じ。
主人公の特殊性は大体「能力」に表れる。

それ以外に特殊を表現する方法を知らないから、なんて言うと方々から文句を言われるか。

◆どうして空想世界に逃げ込むのか。
自分は「特別」ではないと気が付くからだ。
この世界で私は「特別」にはなれないと考えるからだ。

弱気になってしまう時は、自分がこの世界の中心ではないと考える時だ。
多くの空想小説において中心であるには「能力」が必要になる。それはもちろんどこかの軸でトップになれるものだ。
つまり、「特別」だったり「特異」だったりしている必要がある。

現実ではそんなことは叶わないので、今いる世界にさよなら、するわけだ。
この世界(現実)で主役になれないから別の世界へと逃げ出す。
異世界転生の御約束じゃないっすか。

◆大きすぎる井戸の中で
近年は情報の伝達スピードがとってもはやい。サラマンダ―よりずっと早い。
そのおかげで悪意とかそういったものが増幅されやすくなっているのは内緒。

ネットなんてものがあるおかげで「井の中の蛙」にすらなれなくなった。
自分がスーパーベジータだと思えなくなったのがネットです。

前にも書いたけれど、ちょいと検索をすれば私よりも優れた人間が溢れ返っている。
自分が頂点だと思うことは無くなった。
逆に、ちょいと検索をすれば私よりも劣った人間が溢れ返っている。
自分が底辺だと思うことは無くなった。

そうして自分が何者でもない人間であると気が付いた。

最近のネットには素晴らしい記事から失敗談まで何でも存在している、
そうすると、自分よりも凄い人を見つけられるし、こいつはあんぽんたんと思える人間も見つけられる。
そうなんだ、僕らは底辺であることを実感せずに生きていられるようになった。
また、僕らは頂点でもないことを実感して生きるようになった。

何者でもない、という自覚だけが精神を支配した。

◆角が立つ前に削り落とす。
ネットのお陰で「失敗談」を見ることには事欠かなくなった。
リスクを感知しやすくなった。
人に聞かないと比較できなかったことも、ネットを使えば誰かが比較をしていてくれる。

誰かが必要とする記事は誰かが作成している。
エラーコードを打てば対処法が分かるように。

傷を負わない技術が得意になってきた。

そう、単純に言ってしまえば、「無気力形成」に役立てる人が多くなったというだけ。
リスクが目に見えるようになって、無理に傷を負わなくても出来る事が増えて、挑戦とかそういった気概が形成されなくなった。
そういうこと。
ただ、それだけの話。