huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

観客の反乱

 

…………


◆反射的な文章
世の中には反射的に文章を書く人が存在している。
艦コレの記事を書いている人なんて大抵そんなもんです。
艦娘が好きなわけでもないのに、盛り上がっているからと叩いてみたり、話題にしてみたいする。
最近は、そういう人が増えすぎている……


碌に他人のブログを観ておらず、艦コレについて書いた私がいうのもアレではあるが。
だがそんな私でも感じるぐらいに反射的な文章が多いと思っている。感じている

今期ならば、艦コレがあって、デレマスがある。
6話の盛り上がりを観て、一生懸命アニメを追って文章を書いた人間だっているのだろうな。

少し前なら「ゆゆゆ」なるものがそういった人に流行っていたらしい。
よーわからんが、一部の人がせっせと文章を書いていたのが思い出される。


こんな風に、ブロガーとかそういった人間にとって「使いやすいコンテンツ」として
アニメが消費されていく。
セカイの表層が削り取られていく。。。

それって楽しいのだろうか。

光が集まっているところに駆けつけては、一言発してまた別の光に走っていく。
例えば、「クラナドは人生」だと盛り上がったなら、クラナドをプレイして「岡崎サイコー」といい、「覇権はJOJO」だと言われれば、「世界一ィィィィィ!!」と叫んでみる。

盛り上がっているところに駆けて言っては、雰囲気でコンテンツを使い潰して、別のコンテンツへ飛んでいく。

これとは逆に、盛り上がっているコンテンツを見つければ水を差しに行くような
やからもいたりするからやっかいな話である。

どちらにしても、「ユーザー」っていうよりかは「観客」だろう。
コンテンツに向かい合う側ではなくて、囃し立てる側みたいな。

どこまでが「ユーザー」で「観客」かっていうのは個人の主観になる。
だって、こんな区分は所詮好き嫌いでしかないのだから。

 

◆ユーザーはいなくなるか?
盛り上がっているコンテンツほどユーザーの姿が見えなかったりする。
それもそのはずで、コンテンツを取り巻くのは「なんとなく」という理由が
大半であるからだ。

本当に好きで好きで仕方がない、という人は少数。
多くの人はなんとなくで感情がストップする。

今の世の中、自分で考えなくても誰かの考えを手に入れられるし、深く考えなくても盛り上がることができてしまう。
だからこそ、「なんとなく」の人口が増えていく。

 

◆コンテンツがなんとなくに支配される。
コアなユーザーはないがしろにされ、なんとなく集まっている大勢のユーザーに
コンテンツが支配されると、そのコンテンツは自壊を始める。

これは昔から決まっていることだと、私は思っている。
コアなユーザーを切り捨て、なんとなく集まっている層に注力をしてしまえば、
ユーザーは固定化することなく流出していってしまう。

大事なのが固定ユーザーと新規ユーザーのバランスだったりするのだ
と、思っているけれど実際はどうなのだろうな。


◆コアなものでも拡散される世の中で
個人の世界であったところに、観客が入り込みやすくなってきた。
ツイッターから、ツイッターをまとめたーのから、ブログに、アプリに、
といった形でコアなものにすら観客が入って来るようになってきた。
もちろん、新しいユーザーの参入は好ましいものであるはずだが、単なる消費財
として使い潰そうとする人間もいるので難しいところである。

所詮、コンテンツなんてものは消費財でしかないのだろうか。


◆観客が囲むキャンプファイヤー
私の愛したコンテンツが次々と炎の中に投じられていく。
誰一人コンテンツを観る者はなく、燃え上がる炎に観客は声を上げる。
時折、燃えにくいコンテンツが投げ込まれると、観客はそれに文句をいい、コンテンツは燃えやすく小さく切り分けられ、また投げられる。

燃える、燃える、コンテンツが燃えていく。

炎が小さくなり始めると観客は去っていく。
後に残るのは、黒く煤けた残骸だけ。
もう二度と日の目を見ることは無い。


◆終わりに
「まどまぎの3話の盛り上がりを観て、文章を書くようなやつ」を批判するつもりで書き始めたが、結局観客の話で終わってしまった。

これは単純に私の好き嫌いの話で、そういう人はコンテンツとは違うところを見ているような気がするのでアレだというだけだ。
観たくて観るのではなくて、書きたくて観ているような、そんな感じ。

「観客」に関して補足すると、新規客に偏っても、固定客に偏ってもコンテンツは
自壊するんじゃないだろうかと思う。よっぽど優れたコンテンツでもない限り、
どちらかに偏重してユーザーが耐えられず、離れていくだろう。


最近だと固定客よりも新規客の声が目立つ傾向にあるからそう感じたのかもわからん。
コンテンツの面白さとかではなくて、燃えやすさが重要になっているような、
そんなきがする。

 

反射的文章、という言葉は不適切であったと今更ながら思う。

作品をトリガーにして世界を醸成する人もいるし、反射としか思えない速度で

すげー文章を書く人だっている。

そうした人を知っているから、ここで補足をさせていただいた。

 

私が言いたいことを正しく述べるなら、

「時流に乗るための文章」、と考えてくれると嬉しい。

目的が内側ではなく外側にある文章。

それって、どーなの、っていうわけです。

 

今日は頭が働かないのでここまで。
「コンテンツに必要なのは燃えやすさ」はまた今度書きます。

それではまた。

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