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huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

物語は、世界は、どこにあるのだろう

 

私はここにいる、


◆世界は遍在する
「世界はどこにでもある」もしくは、「人の数だけ世界がある」とするのが正しいのだと思っている。物語との向き合い方だったり、その作品の在り方によっては世界はあちらにもあるし、こちらにもあり得る。

だから、どれか一つの世界が絶対であるというわけでは……ないと思っている。

曖昧さの上に人間が立脚しているように、事実であると思っている。
「社会」のように世界を一つの共有しているモノとして見ることが出来るのは、個々のセカイに共通しているものがあるからだ。そのことを自覚したときに、「世界の中心は私」という感覚が薄れ、「大勢の人が共有するセカイの一員」であるという感覚が強まる。

世界が一つであるというのは、大勢が共有している錯覚であるのだ。

現実でさえそうであるというのに、
小説という「文字」のみの媒体が完全なセカイを作ることができるのだろうか。

観た人が同じ体験をし、同じように心を動かされ、涙する作品など
この世に存在するのだろうか。


……そんなモノは無いのだと思っている。
すべての人に平等の意味を与えるコンテンツなどありえない。
共通の価値は与えられても共通の意味を与える事のできるコンテンツはどれだけあるのだろうか。

もし、そんなモノがあるのだとしたら、我々はそれを実感することはできないのではないだろうか。

まぁ、そういう話は置いておこう。
ここで言いたいのは、「個々人によって世界のある場所が異なる」ということだ。
それだけ伝われば十分だ。


◆世界の在り処

「文章のみが世界を構築する」
「文章と私が世界を構築する」

●「文章のみが世界を構築する」
「私」の居場所が無い。
作品において私は部外者であり、世界の外側に居る。
文章だけが世界を構成する要素であり、私はそれを眺める立場に居る。

もう少しアレな言い方をすると「観測しなくても世界が存在している」という感覚だろうか。

作品が絶対的に変わらない世界を内包していて、私はそれを眺めている。
読むたびに味が変わるというのは、私が変わっているからである。
世界は常にそこにありつづける。
私の意思とは無関係に。
廻り続ける。
廻る、


要するに、作品が作品だけで完結しているという考え方です。
そこに書かれている文章が全てであり、この世界はそれ以上でも以下でもない。

……私にはこの付き合い方がどうも「無機質」に見えて仕方がない。
作品と共にあるのではなく、作品の横に居るような。そんな感じ。
なんとなく拡がりがない、というか閉じているというか。
触れるというより解読するというか。

言葉がつくる仮想世界はそんなに遠いものだっただろうか。

●「文章と私が世界を構築する」
文章と私が世界の構成要素になっている。
私が変われば世界も変わるなんて認識だろうか。

私の状況に応じて世界が姿かたちを変えるようなイメージ。
世界は固定されたものではなく、変化し移ろい続けるものであるとする。
そのため、多くの人の認識によって世界は拡がりもするし、縮まりもする。

文章が構築する世界はどこにも存在しておらず、認識されたときに再構築される。
構築する主体は私であって、世界は常に受け手であるという認識。

これはこれで世界が受動的な存在に見えてくるのでどうかと思っている。
私の感覚に近いが、どこか不十分であるという認識を受ける。

●整理

世界は変わるか
私が変わるのか

ここで問題となっているのは「世界の可変性」である。
文章が構築する世界は絶対的な物であり、私達はその一部を垣間見ているにすぎないのか、
文章が構築する世界は可変的な物であり、環境(人・時代・流行等)に影響されて変化してしまうものなのか、ということだ。

主観的な捉え方をするならば、世界は変わっているのだろう。
変わったという事実・認識があり、その理由を私と世界のどちらに求めるのか。


世界がつまらなくなったのか、私がつまらなくなったのか。
絶対的なセカイがあるのか、確かなものなどこの世にはないのか。
誰かの世界は私のものと同一か、それとも別物であるのか。

前者ならば、研鑽の果てに「永遠」に到達することが出来るのだろう。
後者ならば、等身大の私が「世界」のすべてなのだろう。

私はどちらを志向するのか。

■補足―世界の領域―
補足的なお話です。
どこまでが「世界」であるのか、というだけの話。

言葉だけが世界。
文章が世界
本が世界。
本と私が世界。
本と作者が世界。
本と社会が世界。
本と世界が世界。


文章の字体は世界に影響するのか
文章のレイアウトで世界は変わるか
紙の書籍と電子書籍で世界は変わるのか
私のせいで世界は変わるのか、作者の人格によって世界は変わるのか、
社会によって世界は変わるのか
世界によって世界は変わるのか

どこまでが世界なんだろうか。
どこから先が世界から切り離されるのだろうか。

文章の中に作者を見出すのは間違いだろうか、黒歌鳥はフェケテリコか黒人か、
音楽小説は音楽を知らないと楽しめないだろうか、風刺のために描かれる世界はないのか、
文章は文章でしかないのか

 


……要するに捉え方の問題です。
作品が構築する仮想世界にどこまで取り入れるのか。

四月は君の嘘をより楽しむために、クラシックを聴くのか、そうではないのか。
譜面しかみないのか、作曲者に想いを重ねるのかどうか。

どこからどこまでが世界になるのだろうな。

■補足2―好きなら知ってる―
ふと、思いだしたことなので本筋とは関係ない。
知人なども使ったりする「好きだったら知ってるでしょ?」というアレ。
好きを証明するために知識量が必要なようでとても好きじゃない。
第一、どこまで知っていたら「好き」になるのだろうか。
原曲を知っていたら?作曲者を知っていたら?その時の情景を知っていたら?
「好きなら気になる」というがどこまで「気になれば」いいのだろうか。


◆終わりに
この記事は次の一言を知るために書いたものである。

「言葉が作る仮想空間は外側と内側のどちらにあるのか」

世界が内側にできるのか、外側にできるのか、という問いである。

当初の私の答えは【内側に発生し、私を壊して外側に拡張していく】というものだ。
世界とは私であり、私以上の存在であるという認識だ。

物語に絶対的なモノや永遠はないのだろうか。
僕らは錯覚しか共有できないのか。
仮想しか手に入れられないのか。
……

何者にも囚われず、純粋なセカイなど存在しないのだろうか。