世界は一意だっただろうか
「あの作品を一言でまとめている記事はないか」
「俺の考えを肯定してくれる文章はないか」
「知っていたら自慢できる知識はないか」
◆答えを欲しがる
アニメで何を言っているか分からないようなセリフがあったりする。
それは、口の動きだけしか見せてくれないものから、表情だけで伝えてみたり、別の場合だと言語そのものが理解できないものだったりして。
そういったものって本来、これまでの前後関係とか、未来を見据えたうえで「想像」する部分であるのだと思う。
けれど、それに答えを欲しがる人間が増えている。増えすぎている。
最近のだと、「エロイムエッサムエロイムエッサム我は求め訴えたり」だろうか。
四月は君の嘘のかおちゃんが口にした言葉であり、こーせーもそんなことを言っていた 、と思う。
随分昔に書いたような気がする旧ブログがアニメ化と同時に伸びたのは、こういった理由があるからだ。
あの台詞はなんだったのか、と。
今はもう覚えていないが、悪魔召喚とかなんだとかだった気がする。
けれど、多くの人があの一言の意味を知るために「ググった」わけである。
そういった人の多くは言葉の意味を知りたかったのだと思っている。
多分、彼女がどうしてその台詞を口にしたのか、とかを想像したりするよりも、言葉を 知るほうが簡単だと思ったのだろうな。
こういった話が分かりにくいだろうか。
よくある展開とかを考えるとするならば、「想い人に出逢えたかどうか」「最期の微笑みの意味」「机に置かれた銃の意味」とかなんでもいいから想像してほしい。
明確な答えが与えられているのではなく、多分そうなんだろうと感じるようなものを思い出して欲しい。
すべてがググられる対象になった現在、そういった読者に委ねる謎、みたいなものに読者が解答を求めるようになった気がしている。
■点でしか追えない人
彼らはニューロキアンなのだろうか。
◆世界は一意
●曖昧を事実に
ドアを開けたら閉める。
なんてのと同じぐらいに、「分からないことは調べる」という癖が体に染みついている 。
それでも昔は「他人に聞く」というプロセスを経なければならなかったから、ある程度 考えることが必要であったのだけれど、今はそうではない。
自身をどこにも晒すことなく、正解らしきもの、に辿りつくことが出来るようになった 。
こういう風に「分からないことを調べる人」、っていうのは
「世界を一意にしたがる人間」じゃないかと思っている。
世界を一意にする、っていうのは物語が謎解きみたいに見えているのだろうな。
結論に至ることが世界のすべてであり、最大の幸福である、みたいな。
●世界を一言に
少し前ぐらいに「クラナドは人生、フェイトは文学~」みたいなフレーズが流行った。随分昔のほうがあってるだろうか?
なんにせよ、作品、物語、コンテンツを「一言」でいうのがブームになったわけ。
長い言葉を連ねて愛を語るよりも一つの言葉だけで説明してしまった方がカッコいいし 、伝わりやすかったのだと思う。
昔の人はよく考えたもので、あの一言に相当な量の「想い」が込められていた。
例えば、「クラナドは人生」って聞いたらこれまでの体験とか想いとか感情とかがブワ ーッと広がるわけ。当時の想いからすれば「人生」っていう言葉がクラナドを表す最小 単位だったのかもしれない。
けれど、今の時代はその言葉を探すことに躍起になっている。
世界の最小単位としての「言葉」を探すことで、規定することで、切り捨てて押し嵌める事で世界を獲得した気分になろうとしている。
クラナドを人生っていう言葉にしてしまうために、私達はプレイしているのだろうか。
四月は君の嘘は青春だ、と、言うためにアニメを観ているのだろうか。
もちろん、こういった言葉が自然と出てくることだってあるだろうが、どれだけの人間がこの言葉に籠められた想いを汲み取ることが出来るのだろう。
●事実を積み重ねる
もう一つ別の話をすると、事実だけを積み重ねる人間っていうのもいる。
「走れメロス」を「メロスが走った物語」としか捉えられない人のこと。
これは極端な例だっただろうか。
まぁ、フローしか追えない人間いる、ということだけ分かってもらえればいい。
私はここまでに三人の話をした。
「曖昧なモノを事実にする人間」
「世界の最小単位を知りたがる人間」
「事実を積み重ねる人間」
この三者に共通しているのが「セカイを一意にする」ということである。
作品における「正しさ」を求めているわけです。
けれどそれって大切だろうか。
というか、作品で「間違っている」ってなんだ。
■ゲームの終わり
話が少し変わるけれど、「ゲームの終わり」はどこにあると思う?
勇者が魔王を倒すまで遊ばなければダメ?
自分が満足いくまで遊んだら完結しなくてもいい?
キャラクターをカンストさせなければダメ?
ポケモンは150匹集めないと意味が無い?
バグらせて正規の遊び方以外にも遊ばないと終われない?
それとも、人気がなくなったら終わり?
元々完結することが目的ではないゲーム、っていうのも存在していると思うがそれは除こう。
作品に事実を求めている人間は最後までプレイしないとダメだと思うだろう。
作品に暇つぶしを求めている人間は飽きるまでプレイするだろう。
作品に流行を求めている人間は要点を抑えたら忘れるだろう。
そんなことを考えていると、「ゲームなんて終わっても終わらなくてもいい」気がして
くる。
つまり、「ゲームはどこで終わってもいい」わけであって、「ゲームはどこで終わらなくてもいい」わけでもある。
要は、好きにしろっていう話で、好きにさせてくれ、っていう話でもあるわけ。
そんなところ。
◆一理ある、一理しかない
我那覇さんが演じるのなら
その人物は我那覇さんの中にしかいなくて…
我那覇さんだけがその人物と話すことができるのだと思う。
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この役の女の子って
どんな子なんでしょう?脚本通りだよ
何をするかはわかるんですけど…
考えてることとか設定的なことで…さぁ
(中略)
そんなこと言ったら全部NGだよ
逆に言えば全部OKだしさ
役者さん側がOKなら
自分が納得しているならそれでよいかと。
これで伝わってくれると嬉しい、って思うな!