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huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

生きる事に不器用な私の選択

 

私はどこまでも自由だった

 

ブログと私を見つめ直す

 

※ブログの再定義は最後です。
 面倒な方は飛んでくだち!

 

◆私は何も選ばない

彼女が何故死を選ぼうとしたのかは分からない
でも、千秋は彼女の意思を尊重したいと思った
だからといって死んでほしいわけじゃない

 

このままでいいんだずっとこのままで

 

―ミサイルとプランクトン 千秋鉄朗

 

 

 

私はこの作品を読んでから彼のことがずっと忘れられないでいる。
生きるところに不器用そう】という台詞が刺さったことや、彼自身の在り方が自身を彷彿とさせたからだと思っている。

彼は何も選択をしていない。
選択しないという選択すら選んでいない。

彼女が死ぬことを受け入れたわけでもなく、彼女の意思を捻じ曲げてでも救うという選択をしたわけでもなく、彼女とのこれからを考える選択をしたわけでもない。
ただ、何も考えずに止まった時間を生き続けている。未来を忘れて話し続ける。

そんな姿がどうしても私と被ってしまってしまう。
何かを選択することで生じる何かを恐れて現実から逃げ出している。

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分かりにくい人は、「これから正義の~」を思い出してくれると嬉しい。

トロッコを操作して多くを救うために少数を犠牲にする話があったと思う。
知らない人は衛宮切嗣でもどこぞの英霊でもいいので思い出してほしい。

端的に話すと「多くを救う」と「少数を救う」という選択肢があり、どちらを選ぶのか、というものである。(正義の話とは別の意味になりますが)

私のような人間は「どちらも選べない」のである。
自身が関わることによって生じる責任であったり罪の意識を考えると恐らく逃げ出すのではないかと思う。
最低な選択肢「みなかったことにする」というやつだ。

まぁ、私を除いたとしても多くの人は「誰かを見捨てる」選択肢を選ぶのは難しい。

今回のトロッコ問題で生じた「葛藤」というものが自身のなかにあると思う。
ちょいと手を加えれば誰かを救うことができるが、誰かを見捨てることを私はできるだろうか、といった類のものだ。

 この「葛藤」が人命にかかわらないような

些細な問題にも適応されるのが「選択できない人間」である。

 少しは理解頂けただろうか。

選択できない精神的弱者の心理を。
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何かを選ぶという行為には責任やリスクが伴う。
生きることに不器用な人間はその責任やリスクを直視しすぎてしまう。

どこぞの主人公のように簡単に手を差し伸べることができない。
彼女の意思を捻じ曲げた責任を私は取ることが出来ない。そんな自信は欠片もない。

 

そうして「選択」を避けてきた人間の末路には「こどもな大人」がある。
『たたかう』も『にげる』も選択せずただ時間を浪費してきた人間がどれだけの経験を積むことが出来るだろうか。
『少傷論』でも書いたが、選ぶことを避けた人間は何事も成し遂げる事はできない。何物も獲得できない。

 

◆名を捨てられるネットという場

ネットとは付与された外部評価から解放された空間である

『外部評価』というものはやっかいなものである。
ドラクエの呪い装備のようなもので、その世界に留まる限り逃れる手段は少ない。
一度装備させられてしまえば、それを取り払うことは難しい。

その上、現実ではそれを払ってくれる場所がない。無念である。

しかし、『ネット』という空間では外部評価をリセットすることが出来る。
実名を避け、現実の体験を忌避し、年齢を偽り、言葉遣いを変える。
そうすることで、現実の私とは乖離した『私』ができあがるわけである。
近年は、SNS認証やらなんやらで『私』でいられる空間が減ってきているが、そういったものを避けていけば『新しい私』になることは可能である。

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ネットの問題は、『新しい私』が現実から離れすぎて生じる問題と、ネットが『現実の私』と近づきすぎて起きている問題があるのかなーって思います。
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つまり、法律だったりなんだったりをクリアしてしまえばある程度無敵になれる空間がネットである。

叩かれたら閉鎖して、新しく立ち上げる。

このサイクルを回してしまえば、一定条件下では無敵になれるわけである。

また、「あるふぁぶろがー」とかそういった類の人間にならない限りは発言の影響力をさほど気にする必要が無い、というか気にせずにいられる。

結論
現実とは違う環境で選択をすることができる

現実でブヒブヒいうよりもネットでブヒブヒ言っている方がダメージは少ない。
それどころか、頑張って検索すれば同志(ただし一方通行)が見つかるだろう。

だから、現実で呪われた装備を装着した人間がネットに居たりする。
私も対して変わらないのだろうな。

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■自由なネットでも選択できない私
先述したようにネットは切り捨ててしまえる場所である。(実際にやるかどうかは別)

だから、現実よりもリスクのある選択肢をとることができるものである。
それ故の問題もあるだろうが、それが救いになっている人間は居るんじゃないだろうか。

しかし、私はそうした場所においても【選択】ができていない。

例えばジャンル。
「興味のあるものについて書く」ということは「何でも書く」ということでもある。
そしてそれは、「自身を規定しない」ということでもある。

自分を固定させないことで無限の可能性を見つめ続ける
『何者でもない』から『何者でもなれる』】と勘違いしていたかったのだろうな。

 

例えばネットコミュニティ。
はてなのルールを知らない、などと言い訳をして避けてきた関わり合い。
幸いにして幾人かの「読者」なる方々がいるにもかかわらず、避けてしまっている。
猫箱さんに紹介されたあたりから『ネットにおける他者(観るだけでない)』を自覚した

にもかかわらず、遠くに置いてしまっている。
ネットにおける関わり合いも一つの楽しみ、なんてことを当時は言っていたのにな。

要するに、
自身を規定する『軸』が不在
ネットそのものとの『対峙』が不在

なんだろうな、個を規定するための色んなものが欠けていたのかもしれん。
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◆自由だからと言って幸福ではない。

不自由であることと不幸であることはイコールじゃない
鋼の錬金術師 アルフォンス

鋼の錬金術師 (12) (ガンガンコミックス)

鋼の錬金術師 (12) (ガンガンコミックス)

 

 

「不自由≠不幸」でないように、「自由≠幸福」である。
もちろん、お金と似た様に、多くある分には問題ない。むしろ多くあった方が良い。
けれど、それがあれば必ず幸福になれるかというと、そうでも無いらしい。

 

自由≠自在

 

凡人として生きるということ (幻冬舎新書)

凡人として生きるということ (幻冬舎新書)

 

 

押井守の「凡人として生きるということ」なんて書籍には上記の内容が書かれていた。
ひきこもりは社会人よりも自由に時間を使うことが出来るが、必ずしも社会人より幸福である

というわけではないそうである。

何故ならば、ひきこもりは『自由』であっても『自在』ではないからである。

エヴァでも似たようなことをやっていた。
最後の方でやっていた、地面がうんぬんかんぬんというやつ。

そうなんだ、抑圧されているからできることっていうものがある。

 

一人で演奏をしていれば自分の技量のまま、思うように演奏することができる。
しかし、誰かと演奏する音楽の楽しさに気づくことは一生ない。
やりたいはずのフーガを弾くこともできない。

彼女と出会わなければ、これほどまでに彼女を悲しませることは無かっただろう。

けれど、彼女と過ごした時間もエプロンを着て料理をする姿も何一つ感じることなく

過ごしていたのだろう。

彼女と日記のやりとりをしなければ、彼女を苦しめることはなかったのだろう。
けれど、彼女と共有する時間の楽しさも、自身のこの胸の高まりも、そしてなにより彼女に友達と過ごす時間を楽しんでもらえなかっただろう。 

主人公の主人公たる所以は【選択している】ことであると思っている。
上記の出来事も彼らは「傷つくかもしれない」「傷つけるかもしれない」選択をした。

多分、彼らは不自由だっただろう。
選ばなければこれほどまでに苦悩することも苦しむことも無かったのだろう。

けれど、彼らは、彼女らは幸福だった。

 

 ……私はこれまでにどれだけの可能性に目を背けてきたのだろうか。

主人公たちのように、傷つくかもしれないがその先にある希望を信じて行動できたことがこれまでにどれだけあっただろうか。

 

◆かくして荒野に一人きり

主人公能力『選択する』】は、多くの人間が社会生活で獲得してきた能力である。

子供の頃から、選択を繰り返していれば、選択した先にある未来・希望を信じることはできたのだろう。

しかし、大人にそのような機会は無い。
信じる事のできるプロデューサーはおらず、他者と隔絶した能力があるわけでもなく、新しい世界に連れていってくれる人もいない。信じてくれる人もいない。
プロデューサーも、岬ちゃんも、神楽坂先輩も、エウレカも、アニキもいないわけだ。

そんな人間が、他人の人生に関わる・自分の人生を生きるために必要な【選択する能力】をどうやって獲得したらいいのだろうか。


◆現在を生きる私の選択

……ありきたりな話だが、小さいなことから選択していていくしかないのだろうな。
その場としてネットは優れている。リスクを把握しておけば現実よりは簡単に行動することが出来るだろう。

 

つまり、行動しないと経験値も溜まらず何のスキルも手に入らないわけ。

選択した先が間違っていたことにすら気が付けないわけ。

ブログを未分化のまま放置していては、何も変化しないわけさ。

 

と、ゆーわけでブログについて再定義します。

取扱いコンテンツ
・漫画やライトノベル
・アニメ
・SF小説

【文章形態】
・感想
・思考実験、頭の整理

【テーマ】
・永遠、愛、友情、ホンモノ、理想、虚構
・言語、言葉、物語、世界、セカイ
・不器用な人間、精神的弱者、つまり私

 

【ネットコミュニケーション】
・とりあえず調べます。
・記事を読み終えたら読者になります。
・コメントとかもしてみたい。

 

……これまでとこれからはこんな感じ。

否定・肯定
取る・切る

この二つが基本的なスタンスとして加わってきます。
つまり、『向き合う』と『選択』がブログに入ってきたわけです。

 

この過程でご迷惑をお掛けしていたら、御連絡下さい。
すぐに対処いたします。

 

それではまた。