言壺 似負文
私が読んでいるのは小説か?
コンテンツ
◆小説における論理矛盾
◆文字と戯れる
◆世界はそこに在る
◆小説における論理矛盾
「彼女は蛾のように美しかった」
「はい?」
「電送小説ではそういう文は書けないんだ。彼女は蝶のように美しかった、とワーカムに改竄される」
――言壺 似負文
「彼女は蛾のように美しかった」
文章としては間違っていないが、正しい意味が成立しているわけではない。
もし、彼女の美しさを表現しようと思うのならば、蛾ではなく、蝶の方が適切であるからだ。
この一文だけに目をやるとそういう解釈をすることができる。
しかし、作品はこの文章で完結しているわけではない。
以下に続く文章、もしくはこれより前の文章を通して読めば、「蛾のように美しい」という文章が成立する。
【小説全体を読めば醜いものが美しく感じられるようになる】
小説そのものがひとつの仕掛けであり世界になっている。
その世界に入り込んでいくにしたがって、自身の言語空間が汚染され、改革させられる。
意味の通らない文章であるのに、それでいいのだ、という気分にさせられる。
これまた不思議である。
しかし多くの作品はこうした論理矛盾が少ない。それは何故か。
下手な文を書くのは簡単だが、まるっきりでたらめで意味の通らない一見まともな文というのは、なかなか書けない。
――言壺 似負文
一見まともな文、というのが難しいのだと思う。
1つ前の綺文では、「わたしを生んだのは姉だった」という文章がある。
完璧な涙では「妻を娶るために墓へ行った」という文章がある。
どちらも上手いものだと感心させられる。
一文から広げられる世界が大きい、ように思える。
言葉が言葉として完結するのではなく、その言葉が持つ意味を膨らませ世界を構築している。
【この一文が核となり、続く文章が世界を構築していく】
【世界の核】に疑問を持たせ続けていては作品としておしまいである。
つまり、一見まともな文と後に続く文章によってそうした世界を構築していく。
【矛盾を世界の色に取り込む】
昔のノイタミナラジオで「作品には一つだけ嘘がある」なんてことを言っていた。
その他の要素は現実と同じであるのに、「パトレイバー」が存在したり、「ドミネーター」が存在したりする。
現実とは違うその要素によって、現実と似ていてそれでいて異なる世界が構築される。
【いかに嘘を馴染ませるか】
これが作品にとっても大切なのかなーと思います。
◆文字と戯れる
単語がパズル片だとすれば、それが組み合わされてできる言語空間がなにやらめちゃくちゃな抽象的なものであっても
かまわない。視覚的なイメージがぜんぜん浮かばない文だからよくない、わけじゃない。文字列という絵が目に入っているのに、
遊び方を知らない者は、その絵が目に入ってこない。
――言壺 似負文
言葉と戯れている作家ならば「西尾維新」が挙げられるだろうか。
ちょうど今現在少年ジャンプ+なるアプリで大斬が掲載されている。
ファーストキスは知識の味がした。
―大斬 僕らは雑には学ばない
知識と味は本来意味としては繋がらない。
とゆーか、知識に味なんてあっただろうか。
知識に味はない。はい、論破。
ただ、想像を、妄想を、膨らませる事は可能だ。
知識の味がするキスとはなにか。図書室か?いや、本そのものか?
それとも知識を食する生命とのキスであろうか。
いやはやそれとも……
言葉で遊ぶっていうのはこういう事なのだろうかな。
言葉と戯れることでイメージを紡ぎ合わせたりする。
そういう遊び方ならば私もやっている。
しかし、気になるのは「文字列という絵」という表現である。
構築される世界の話ではなく、紙面上について言及しているわけである。
終わりのクロニクルの至がやってのけた「を」を一列に並べる行為のことを指しているのだろうか。
まぁ、それではないだろう。縦読みを一つの遊びとして組み込む行為とは思えない。
それで思いついたのは、【洗練された文章】ということだ。
【無駄がない】、といってもいい。
「創業と守文と孰れが難き」
「創業と、それによって出来上がったものを維持していくのと、どちらが難しいのであろうか」
「創るのと維持するの、どっちが大変?」
上二つは山本七兵氏の帝王学という書籍から引用させていただいた。
汲み取られる意味はおそらく同じであろう。
しかし、文字列として美しいのは最初のものであると私は思っている。
【説明的過ぎず必要最小限で纏められた文章は美しい】
繰り返すが、どの言葉であっても伝えられる意味は変わらない。
その文章が内包する価値は変わらない。
【しかし、美しさは変容する】
言葉と遊ぶというのはこういった意味が込められているのだろう。
そうした美しさを追求していくと言葉、という単位ではなく文字を選ぶことにもなるのだろう。
旧字体を使うのか、ひらがなにするのか、カタカナにするのか、英語にするのか、といったように。
◆世界はそこに在る
それから、一語を書く。それを読んだとたん、読者の頭で、用意されていた核を中心にして世界が自動的にできあがってゆくのだ。先を読まなくても。だから、その一語の先はなにもない。空白だ。しかし読み手はイメージが膨らんでゆくのを感じている。もはや言葉ではない。脳のイメージ駆動装置が、自身の意識とは独立して自走する……
――言壺 似負文
綺文では世界を壊すのに必要なのはたった一言であるとした。
似負文では世界を構築するきっかけは一言であるとした。
一つの言葉によって世界は壊されもするし、創られもする。
実に面白い話だ。
しかし、最近は終わりの一言から先を求める声が増えている。
例えば、魔法少女まどかマギカ。
叛逆の最後の意味を求めて多くの人がインターネットをサーフィンした。
あのシーンを観て、自分の内側にセカイを構築できなかった人間が検索を繰り返した。
後は、ピングドラムとかの抽象的な作品だろうか。
あれらを十分であると取るか、不適切ととるか。
ただ、それの違いです。
この作品でも最後に一言だけ載せられています。
その言葉はここでは伏せておきますが、
散りばめられた言葉によって構成された世界が最後の一語で組み変わるさまが感じられるでしょう。
【小説の面白さ、可能性を突き付けられる作品である】
綺文の時は物語としたが、小説とした方がいいのかもしれないな。
それではまた。