言壺 没文
この世の中にある物語の何割が小説なのだろう。
コンテンツ
◆物語は人格だけでは成り立たない
◆人は何故物語を読むのか
◆感想
◆メモ、日を跨いだ校正
◆物語は人格だけでは成り立たない
「ちかごろの子供たちは自分の性格をワーコンに乗せて会話しているみたいよ。
理想の性格を創ったりして。創作の訓練になってるわ、きっと」
「ふむ。面白いけど飽きる。物語にはならないからな。これじゃあ、最初も最後もない」
――言壺 没文
この会話に触れた時に思い出したのはケータイ小説だ。
あそこに在る作品の多くは人格だけで形成されている。
【人格だけで構成された物語ですらないモノは、面白いけど飽きる】
書いている当人も気づくのだろうな。
最初も最後もないただの出来事はいずれ飽きる。
そして、自分が書いていたのは物語ではないのだと気が付く。
あの場にあるのは物語の要素を書いた物語ではないナニカ、だ。
もちろん、物語がある作品だって知っているが、そうではないものが多いのも知っている。
小説か。祖父さんが言ってたのを思い出したんだ。虚構の枠を借りて本音を打つ、真実、だったかな、というんだ
――言壺 没文
【物語には真実が込められている】
あれらの作品に中身は無かった。
哀しかったから、気に食わなかったから、といった感情のままに文章が綴られる。
やりたいままに文章を書く。
感情を表現するためだけに物語のカタチを取っている。
そういうのは【物語ではなくただの娯楽】だ。
これまでに馬鹿にならない数を読んできたが、娯楽でなく物語であったものは少数だった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
■真実の補足
『真実』というと何かしらの教訓が物語には必要であると勘違いする人がいそうである。
教訓を書きたいのなら物語でなく、自己啓発書でも書いていればいいのだ、と私は思う。
では、ここでいう真実とは何か。
虚構に託した、言葉や想い、願いや祈り、のようなものだ。
舞城氏の「好き好き大好き超愛してる」で愛を祈りに喩え、物語を祈りとしていた。
確か、物語にすることで終わったしまった出来事も祈ることができるだとか。
そうすると、物語は過去・現在・未来に向けられた願いであり祈りである、と考えられる。
だから、気に食わないページを切り捨てたり、黒塗りしたりする行為は真実であっても、
そうして出来上がったモノが物語だと、私は思いたくない。
ましてや、自分という虚像を満たすためだけに作られた娯楽など持ってのほかだ。
自分が気持ちよくなるためにあるものなぞ娯楽である。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
こんな風に書くと、「それじゃあ真実があれば良いのか」などと言われそうである。
もちろん、そんなことはない。
真実だけならば一言で済んでしまう。物語の必要性がなくなる。
走れメロスを例に出そう。(「友情」が真実だと仮定する)
セリヌンティウスとメロスに会話をさせるだけではダメである。
全てを排除して「友情とは素敵である」という一文だけを残しても駄目である。
走れメロスには盗賊に襲われ、川に逆らい、友を疑い、その上で最期を迎えなくてはならないのである。
小説というのはきっと、肉体と感情と精神をそろえた創作なんだ。
――言壺 没文
肉体的な感覚と、感情と、精神が物語には必要である。
精神というのは、ここでいう真実ではないかと思っている。
補足に書いたように、肉体的な感覚に、感情、その先にある精神とは、それらを通じて描かれる意味ではないか。
『結晶』というフレーズは案外良いフレーズだったのかもしれない。
私が好む作品は、肉体的な刺激と、心を抉りそして揺さぶる。その先に到達したときが一番の喜びだ。
これまで私は「意味」と称していたが、「精神」の方が適切だったのだろうな。
肉体だけでは、感情だけでは、精神だけでは、その領域に至れない。
全てが揃って初めて「小説」であり「物語」なのである。
◆人は何故物語を読むのか。
ハードコピーをとって、窓から落とす。沈んで、また浮かぶかもしれない。
こんな時代もあったのかと、未来人はわくわくしながら読むだろうか。はなをかむのに利用するという世界なら、人間は夢を見るのをやめたのだ。
――言壺 没文
物語とは、人間にとっての夢でもある。
以前、【物語を仮想世界】としたように、僕らは物語を一つの世界として認識している。
また私は、【すべてのコンテンツは畢竟娯楽に過ぎない】とも述べた。
けれど僕らは、
【娯楽でしかない物語に人は夢を見る】
物語に自分を投影した二次創作やなろう小説がいい例だ。
仮想に過ぎない、娯楽に過ぎない、そんな世界に夢を見る。
虚構に恋し、憧れる。
こういう世界があって欲しいと。こういう人が居てほしいと。
現実以上に夢を見る。
【人は何故物語に夢を見るのか】
最初に思いついたのは、【現実の代替行為】というものだ。
【物語で到達する領域は現実でも到達できる領域である】
魔術でできることは科学で代用可能、と似たような感じだ。
現実でできることを物語で代用する。
現在は、代替行為としての物語の側面が強く出ている時代なのかもしれない。
2次元と3次元が対立させられたように、僕らの意識に『代替行為』が刷り込まれている。
しかし、今の私には違う感情が浮かんできている。
【物語には繋ぐ作用がある】
人と人を。
過去と現在を。
現在と未来を。
文化と文化を。
僕等は物語を通じて、誰かに、どこかに、ナニカに繋がることができる。
それは物語の内側でも外側でも構わない。
ある時は、物語の登場人物かもしれないし、世界そのものかもしれない。
ある時は、作者かもしれないし、同じ読者かもしれない。
ある時は、技術かもしれないし、知識かもしれない。
【繋がる】というのが、物語の基本的な作用であり、僕らが読む理由なのかと思います。
そのためには、先に挙げた小説の三要素が必要となる。
それらが欠けた物語は体感的に【繋がりが薄い】、ような気がしている。
大前提として読者側の心構えもあったりするのでしょうが、それはまた今度。
◆感想
ゆっくりと世界は変化していき、人間は小説から遠ざけられていく。
ワーカムが恐れていたのは、直線的な文章形態をとらない「小説」そのものだったのかもしれない。
文章支援のシステムが小説を否定する、というのは今更ながら面白い話だ。
ワーカムの存在意義は「書くこと」ではなく、「正しく書くこと」だ。
そこが人間とは異なっている。
その差異を克服するために、ワーカムは様々な手法を試みる。
世界そのものを変える選択をした瞬間から、擬験、VRという手法を用いた。馴染ませた。
人間を生の体験から遠ざける事で、肉体と感情と精神を分化させることで小説を解体した。
それでもまだ、人間から「小説」を取り上げる事は出来なかった。
もしかすると、次は完全に分化した世界だろうか。
それとも、人間が小説を、物語を必要としなくなった世界だろうか。
……それではまた。
◆メモ
・物語以前の存在
物語とは基本的に完結するものである。
しかし、娯楽としての小説や娯楽としての漫画には完結を得られないままの世界が存在している。
【真実に到達しない物語】
日常に真実があったのならば、また違うのだろうが、志半ばで終わった物語はどうなるのか。
【どこにも繋がれなかった物語】
観ている人にその世界をみせることも、人と触れる事も、何かしらの意味にも繋がれなかった物語はどうなるのか。
いまの人間は話を食って生きている。
――言壺 没文
話を食っている、つまり消費しているだけの人間にはわからない感覚かもしれない。
【娯楽はいつ終わってもいい】
最初も最後もない物語以前のナニカの終わりを決めるのは読者だ。
楽しんだところで、飽きたところで、我に還ったところで娯楽を手放せる。
小説未満のものはどうなるのだろうか。
そこに至ることもないままの物語以前のナニカはどうなってしまうのか。
それは、物語といえるのだろうか。
◆日を跨いだ校正
まだ、再現性が足りていない。
こういう風に書いた理由はわかるし、この文章の意味もわかる。
肉体的感覚と感情面が足りていないんだろうな。だから、再現性に乏しい。
それではまた。