huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

言壺 跳文

 

ソレと私の間にあるのは言葉だけだ。

 

コンテンツ

◆跳ぶ会話

◆言葉はウイルス

◆敵はワーカムか?

 

◆跳ぶ会話

兄の思考は、回転が速いというのか、脈絡がないというのか、ときどき、とぶ。
――言壺 跳文

私も時々こういった文章を書いてしまうようなことがある。
何かのひらめきから跳んでしまうこともあれば、必要ないだろうと跳ばすこともある。

以前書いた文章を読んだりしていると、そう感じる。
書くべき項目を書かず、感想といいながらどのような作品であったかを書いていない。
私自身はそれらを知っているから書く必要ないが、知らない他人は理解することができない。
というよりも、何を書いているか分からない状況なのかもしれない。

情報が共有されていなければ、跳んだ会話についていくことはできない

「跳ぶ会話」が成り立つためには、情報が共有されている必要がある。
単純に、共有しているものが多ければ必要なステップを省くことができる、というわけだ。
私のブログを例に挙げるなら、「作品を読んでいる人」には伝わる情報量も多いが、
「作品を読んでいない人」には情報量が不適切・不親切であると感じるだろう。

省かれた情報を推察できるから成り立つ

共有しているものが多ければ、どうしてその結論に至ったのかを推察することができる。
そして、推察することができれば会話を成り立たせることは可能である。

おそらく、こうしたことは無意識のうちに処理してしまっている部分が多くあるのだと思う。
それゆえに処理が追いつかない人間からしたら、脈絡のない話をしているように見えてしまう。

「共有している情報量」だけでなく、「言葉の持つ情報量」が多い場合に跳ぶのではないだろうか。
説明するべき言葉を言葉に託す。みたいな。
その言葉が持っている情報量だけで、跳んだ先にある言葉とその前の言葉を繋いでしまえる。

言葉が情報を、意味を持っているからこそ、会話が跳ぶことができるのだと、私は思う。

◆言葉というウイルス

言葉が生きていて脳に侵入してくる、というイメージは、幻想的だ。
――言壺 跳文

言葉は死骸だ。
言葉というものは生きていない。
もし生きていることがあるとすれば、それは私たちの内側に在る時だけだ。

つまり、
【言葉とはウイルスである】

言葉は我々の内に入り込み、自己増殖を行い身体に変化を促す。

これは、綺文を読んだ人には理解出来る事であろう。

『私を生んだのは姉だった』

この一文が初めに壊したのは、姉と母の意味であった。
姉と母の意味が入れ替わることによって、その意味が曖昧になった。

言葉は独立しておらず、他の言葉との間に位置づけられる。
姉という言葉の意味が壊されれば、妹という意味も不安定になる。
壊された意味から生じた私という存在もまた曖昧なものとなり、母に対する父も曖昧化する。

姉と母の意味を入れ替えれば良い、というわけにはいかないわけだ。
一か所を修正するためには関係する他の要素もまた再点検をし、再定義する必要がある。

【変えられた言葉を正すために、言葉を再定義する】

姉という言葉を、母という言葉を、私という言葉の意味を定義し直す。
そうすることによって新しい言語空間を構成することとなる。
新しい言語空間では世界そのものが変わって見える。
これが、被援文。

【言葉は認識を変える】

被援文では、個人の認識はそのまま個人の世界であるため、世界そのものが変わったのと同義としていた。
学生の世界は学校が全てであるように、認識しているものが個人の世界になっている。
その認識を変えてしまう言葉は、世界を変えると言っても良いだろう。

【言葉は世界を変える】

しかし、人は私は言葉ではなく物語によって変えられたのだというだろう。
たった一つの文章で変わったのではなく、物語によって私は変わったのだ、と。

「物語は、物語だ。読んでいれば一時われを忘れて楽しむこともあるし、人生観が変わることもあるだろうさ。
しかし物語というものは意識される。だから、わたしを変えた一冊と言えるんだ。意識することなく、自分が
変えられてゆくとしたら、それは病気だ。侵入しているのは物語なんかじゃない、病原体だ。ちがうか」
――言壺 跳文

【物語は意識されるが、言葉は意識から逃れ得る】

物語も言葉も人間を変化させ得る。
そしてその両者とも意識から完全に逃れる事はできないだろう。
しかし、言葉は意識から逃れる事ができる。逃れてしまうことがある。

物語、とは違う世界の話だ。
混ざり合うことはあったとしても、完全に同一化することは無い。
もしそういう人がいたとしたら狂っているのではないかと思う。
だからこそ、物語は認識することができる。

対して、言葉は無意識に人を変革させ得る。

あたりまえだと信じていることは実は言葉による幻想なんだと気づけば、おかしなことはいくらでもある。
おまえのことはMと呼べるが、おまえが兄であるおれの名を呼ぶには抵抗がある、というようなことだ。
そのような精神構造にされているんだ
――言壺 跳文

『繰り返し唱えられた言葉は現実をそちらよりに歪めてしまえる』
何度も同じ言葉を繰り返していると、本当は自分はそういう人間だったのだと思えてくる。
以前引用したかもしれないが、「思っているよりも人は周りの言葉で出来ている」というやつだ。

定義づけがなされてしまえば、その通りに現実が規定される。そう認識されてしまう。

基本的に、言葉は物語によって規定されるのだと私は思っている。
別の言い方をすれば、【言葉には背景が必要である】という事だ。

僕等が普段使う言葉は人類が共有してきた幻想による定義づけがなされている。
また、言葉ではなく台詞として言葉を認識する事もある。あいつが言っているから意味がある、みたいな。

もし、言葉が背景を欠いても定義づけがなされるようになってしまったら、どうなるのだろうな。

◆敵はワーカムか?


小説、物語、文章、言葉。
この世界を構築している要素を追求していく作品である。

【言葉の在り方を変え、言葉の持つ情報量を変え、世界そのものを変える】

そして、この短編は綺文から連なった一つの小説であるという認識が強く出てきた。
また、ワーカムが敵であるのか、と思っていたが、実際はそうではないのかもしれない、という気がしてきた。

変化する言葉に対して、
ワーカムは姿かたちを変えて生き残り続けている。
人間は言葉に対して順応し続けている。

言葉に対する受け止め方が異なるが、その中心にいるのはいつも言葉だ。
もしかすると、【本当の敵は言葉】なのかもしれない。

 

言壺 (中公文庫)

言壺 (中公文庫)