作品における技法と歴史
知ることは愛じゃない。
コンテンツ
◆世界から見た技法・歴史
◆私達から見た技法・歴史
◆ブログにおける技法と歴史
◆世界から見た技法・歴史
どういう風なカタチをしているのか、
っていうのは世界からしたら関係ない話だ。
どういう演出がなされているとか、ここが強調されているとか、
死亡フラグとか生存フラグとか、そういう世界の外側から決められた事実、
そういうものは世界からしたら関係がない。
そりゃそうだろう。
漫画とか小説とかがどういうカタチをしていようが、それがみせるのはその世界の一部でしかない。
どういう風に写っているのかなんて彼ら・彼女らにとってはどうでもいいことだ。
【干渉できない・認識できない世界なんて存在していないのと同じ】
メタをネタにするような作品だと、自分の立ち位置とか意味とか、役割とか、
そういったものを話したり、気にしたりしているけれどさ。
基本的に、
『僕らにどう見えるか』は『彼女たちには関係ない』ことである。
コマ割りや台詞の吹き出しがどんな形をしているのか。
そんなことを気にするキャラクターなんていないだろう。
◆私達から見た技法・歴史
逆に、彼らを観る側の人間にとって技法と歴史はどのような役割を果たすのだろうか。
以前読んだ作品に「四月は君の嘘」というものがある。
あの作品にはいくつものクラシックが用いられている。
多くの人が知っているであろう「キラキラ星」から「木枯らし」とか「練習曲○○番」とかまで色々使われる。
もちろん、その中には自分が知らないモノもあるだろう。
私の場合、多くが知らない曲であった。
しかし、
【僕らはそれを聴かなくてはならないのだろうか】
好きだったら曲も聴きたくなる。
そんなことをあの人は言っていた。
好きなのだから、使用楽曲にも目を向けるべきである。そしてそれが当然なのだと。
……今の私はそれに同意している。
作品に用いられる技法や歴史を知ることに賛同している。
【一つの言葉】
曲名というのも一つの言葉、なのだと思います。
歴史というのも一つの言葉、なのだと思います。
書名というのも一つの言葉、なのだと思います。
コマ割りも、吹き出しのカタチも、描かれない表情も、全部、言葉なんだと思います。
それを知っていなければならない、というわけではない。
そんなことをしなくても僕らは繋がることができる。
けど、それを知っていれば確かな感情を捕まえることができる。
だから僕らは音楽を聴く。技法に目をやる。歴史を学ぶ。
◆ブログにおける技法と歴史
どういう演出がなされているのか、どうしてそういう風に描かれているのか。
この曲が選ばれているのは何故か、彼の言葉のルーツはどこにあるのか。
そういう技法だったり歴史(≒背景)について書くべきなのだろうか。
【カタチに込められた言葉を汲み取る】
技法や歴史というものは「肉体」に相当するのではないだろうか。
本来無意識に処理される演出の部分を意識化することで、感情の在り処を確かにする。
技法や歴史を肉体として捉えると、文章に加えていくべきなのだろうな。
どこをどう捉えたのかを明示することで、再現することを容易にする。
そういう部分に踏み込んでいく必要があるのかもしれない。
やることがいっぱいですな。
それではまた。