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huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

言壺 栽培文

 

永遠は、言葉と共にある。

コンテンツ

◆言語空間を外部化

◆好きだから好きではダメな訳

◆言葉と文字

 ◆言語空間を外部化

かれらは言葉を完璧に管理し得るものと考えたのだ。
――言壺 栽培文(p179)

この世界では、自身の内側に在った言語中枢を外部に晒している。

言葉から身を守る上では最適な手段ではないか、と思う。
自分の言葉が浸食されている様を見ることができる、というのは便利なものだ。
なぜなら、ウイルスとして侵入してきた言葉を見つけ、物理的に取り除くことができるから。

しかし、言語中枢が外部にあるという事は、他人の目にも見える、ということでもある。
それはつまり、他人が望んだ言葉が素直に反映されるかを観察されかねない。
良くも悪くも言葉をコントロールしやすくなったわけだ。

この世界では、【言葉を自分で育てる】ことができるわけ。
言葉の危険性や連鎖性を考慮した、言葉との付き合い方がこの世界ではなされる。
言葉の自然さは損なわず、望ましい方向に合わせていく。

言葉を鋳型に嵌めるような付き合い方ではない。
自分の言葉を客観的に見ることができ、それを整えることができる。

とても羨ましい世界だ。
借り物の言葉しか使えていないのか、自分の言葉を話せているのかが目に見える。
他人の言葉に飲まれている状況が目に見えるのなら、対処はしやすい。

ただ、この世界に対する疑問は残る。
他者からの影響を排除することのできる世界であるとするならば、
人が画一化されてしまうような気がしてならない。

◆好きだから好きではダメな訳

その枯葉言葉は、言葉というより、おまえのそのときの気持ちそのものなんだよ。
おまえ以外にはだれにもそれに込められている内容がわからない。時間がたてばおまえ自身にも
分からなくなる。
――言壺 栽培文(p214)

『好き』という感情はそれ以上でも以下でも無くて、言葉を付け加えるのはおかしい。
好きなキャラクターの要素を挙げないと好きにはならない、というのはおかしい。
以前にそんなことを書いたと思う。千早は千早だから好き、みたいな。

【好きに脚注を加える行為は好きを減らす行為だ】

結局のところ、好きという感情を表すのに最適な言葉は好きでしかない。
要素があるから好きなのではなく、好きだから好きなところが見えてくる。

【好きの要素は好きの一部でしかない】

でも、書くたびに変わっていくでしょう、とっておけないのだから。
わたしはそんな意味のないことをしたくない
――言壺 栽培文(p218)

好きに言葉を付け加える行為は好きそのものを変えてしまう。
言葉に文章が引きずられて、感情から遠のいてしまうことだってある。

【だから、好きは好きのままでいい】

ここまでは読了後も前も変わらない部分だ。
言葉を付け加えてしまえば、その方向に好きが規定され、狭量になる。
言葉をカタチにしてしまうと、気持ちが欠けてしまいかねない。
だから、その時感じた気持ちはその時のものでしかない。

それでいいじゃないか、と思っていた。

カタチにすると減ることもあるけどさ、カタチにしないと憶えておけないじゃないか。
――昔読んだ東方二次創作 主人公

気持ちが生じさせた言葉は、「永遠」ではない。
そこに籠められた気持ちは知らず知らずのうちに抜けていき、ただの文字だけがそこに残る。
けれど、カタチにすれば憶えていられる。思い出せる。

【言葉を繋いで気持ちを再起させる】

言葉を紡ぐっていうのはそういう行為でもあるのだろう。
一瞬の感情を失ってしまいたくないから、文章にして、カタチにしてこの世界に留める。
先刻の「肉体・感情・精神の統合による再現性」はこのためにもあるのだろう。

逆に言えば、カタチにしなければ、忘れてしまえるわけだ。
好きだった人にアプローチをしなければ、告白をしなければ、
『好き』という気持ちは個人から抜け、『本当は好きでもなかった』に落ち着く。

だから、カタチにしないとダメなのだろうな。
文章ならば、「肉体・感情・精神の統合」が必要となる。

そのためには、【最初の感情を見失わないこと】が必要だろう。

論理的に正しいだけでなく、どうしてその感情を書き表す必要があったのか。
どうして、その感情を永遠のモノにしたかったのか。
それさえ忘れなければ、見失わなければ、戻ってくることができる。

言葉使い師の難しさがようやく実感されてきた。
言葉に操られずに気持ちを込めた文章を構成するのは難しい。

そうなると、私のブログの場合『作品の中身』についても触れるべきなのか。
現状では言壺がどのような世界であるのかは見えていないはずだ。
それについても語るべき、なのだろうな。
そうでなければ、だれも再現できないだろう。

◆文字と言葉

紙に書かれた言葉というのは、死骸ですらない。それは言葉じゃなく、文字というもので、
いってみれば言葉を人間が真似て作ったものだ。
――言壺 栽培文(p201)

言葉を真似て作られたのが文字。
言葉の機能を持たせられたのが文字。

文字を言葉と分けて考える、というのは不思議な感覚でもある。
僕らは平然と文字を言葉に置き換えている。

文字というのは記号でしかない。
文章というのは配置された記号の塊に過ぎない。

そんなものを僕らは無意識のうちに言葉として処理している。
文字を自分という回路を通して言葉に変換する過程で、言葉はアクティブになる。

その言葉の如何によって僕らは多くの事を感じ、考えさせられる。

それは話しかける言葉こそが唯一無二の生きたエロゲーであると信じるからだ。
脚本に起こされたエロは、その時点で死んだ言葉となり、抑揚を失う。
――田中ロミオの世相を斬らない 非実在のイデア

文字は記号である。
言葉は生命である。

生きた言葉に触れるのは存外、大切な事かもしれん。

 

 

言壺 (中公文庫)

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