huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

総てのモノに価値はある

 

 

価値必要

必要=意味

 

今回は、当たり前な事を再定義し直します。

結論はエピグラフに書いた通りです。

だから、その一言で充分な人には必要のない記事となります。

 

また、今回は「価値(誰かにとって意味がある)」という風にしております。

普段の「価値(大多数が認める意味)」とは異なるので、注意されたし。

 

書物は価値を内包する

小説には様々な価値が内包されている。

 

それは、言葉の選び方や並べ方といった「言葉のセンス」だったり、

文章の組み合わせによる「ストーリー」だったり、

文字の組み合わせによって現出した「セカイ」だったり「人間」だったり。

あるいは、「未知」だったり、「主題」だったり、「問い」だったり。

人によっては、「会話のツール」だったり「教養」だったり。

 

そんな風に、小説には様々な価値が内包されています。

内側にあるものから外側にあるものまで含めれば無限に近しい価値が小説には内包されている

 

【価値が無限に表出する】というのは、【人の数だけ価値があるから】ともいえます。

ある人は技巧に、ある人はセカイに、ある人は外側に、といったように作品に見出す価値は多様化している。

だから、僕らが作品から抜き取れる「価値」は「作品の一部」でしかない。

それだからこそ、ブログで書評やら感想やらを書いたりできるわけだ。

 

しかし、【文章が表層に持っている価値】というものは有限である。

言葉と何かを繋げることなく、文章が表層に示している価値は有限だ。

特に、メッセージ性の強い場合には。

 

例えば、文章の書き方について書いてある本があったとしよう。

その作品が持っている価値は次のモノであるとする。

 

1.主題の見つけ方

2.主題の表現方法

3.破綻の無い論理構成の仕方

4.心を打つ一言の編み出し方

5.校正について

 

読み取らせる類のものではなく、与えるモノとしての価値は大抵目次に書かれる。

つまり、文章を通じて何を伝えているのか、という部分に関しては作者の意図の範疇に納められる。

ただし、大きな揺らぎを持たせた「物語」に近い作品は別になるが。

 

ブログの記事もこれに近いものがある。

私がコラム的に書いている記事の場合に表層の価値は大抵エピグラフに書いてあるものだ。

どこかを勝手に繋げて別の価値を見出すのは、表層ではなく、どこかと繋がり、連鎖したことによる価値だ。

私の意図するところではない。

 

話を元に戻そう。

作品は個人に対して開かれており、その価値は無限に等しい。

しかし、メッセージ性の強い文章においては限定された価値が存在している。

 

僕らは書くときに、そのことを意識しなくてはならない。

【個人に開かれた価値】について書くのか、【限定された価値】について書いているのか、を。

 

攻略本は価値の宝庫

私は小さい頃よく「攻略本」を買っていました。

 

攻略本の中身は基本的に「価値のあること」しか書かれていない。

小さなメダルの在り処とか、秘密の合言葉とか、石板の在り処とか、彼は途中でいなくなるとか。

そういった「価値」あることが攻略本には詰め込まれていた。

 

これは、他の文書でも同じことである。

新聞でも、雑誌でも、もちろん書籍でも。

すべてのページに価値が内包されていた。

 

ただ、肝心なのは【全てのページが必要だったわけではない】ということだ。

 

価値があるからと言って必要であるとは限らない。

 

石板の在り処以外に、攻略本の価値はないかもしれない。

テレビ欄以外の新聞の価値は認められていないかもしれない。

筋トレ用具のページしか必要な人もいるかもしれない。

 

つまり、人によって必要するモノは異なり、総ての価値が承認されるわけではない。

 

そのため、大多数の価値は承認されることなく切り捨てられる。

まぁ、当たり前の話だ。誰にも承認されなかった人間は、価値を認められなかった人間は世間から弾かれる。

 

価値がないわけではなく、価値が認められなかった。

(これについては、また別の機会に書くとしよう)

 

書評やアニメの感想といった場合に、僕らは決めなくてはならない。

【私が承認した価値(=意味)】について書くのか、【作品に乗せられた価値】について書くのかを。

 

すべての価値を承認する

蛇足かもしれないが、少しだけ。

 

【すべての価値を承認するということは不可能だ】

 

無限に近しい価値のすべてを自分自身にとっての価値として承認することは不可能である。

それは、人間としての限界という意味でもある。すべてを自分のモノとするには時間がなさすぎる。

 

また、総ての価値の承認とは、総ての価値観を自身に内包すること、でもある。

それは自己の喪失でもある。個の消失である。

 

そんなことをし続けられるほど人間は強くない。

どこかで何かを選択し、自己を規定することになる。

それ以外の分野に関しては、他者の価値観を利用することもあるだろうが、選択した先に関しては

自己を持つことになる。

 

つまり、私が私である限り、すべての価値を承認することは不可能だ。

 

まぁ、これは極端な話なので、実際は目に見える範囲ならば可能なのかもしれん。

ただ、他者を取り込めば強くなれるという発想の敵は大抵崩壊するものだ。

一応書いておくと、他者として認めたうえで合体するのとは別の話だ。

 

つまるところ、

時間的にも人間的にもすべての価値を承認するのは難しいのではないか、というのが私の意見だ。

 

ブログには価値を書くのか、意味を書くのか。

○○年発刊、××賞受賞といった宣伝文句から書き始めるブログは少なくない。

あらすじとかならまだアレだが、作者についてのエピソードから始まるブログも存在している。

 

そういうのは基本的に「価値」の側に分類される文章だ

 

自分にとってどういう「意味」があったのか、というよりも「どんな価値を内包しているか」について

書くことが中心になっている。

 

それ故に、文章を通じて書き手が見えることは無い。

あるのは、客観的な価値が書かれた文章だけだ。

 

……最近、このことについて頭を悩ませている。

作品が私にとってどういう意味を持っていたのか、のみを書くのは作品に対して不誠実ではないか、と。

 

良かった探し、ではないが作品には大抵「価値」が存在している。

それが私にとって大切であるかどうかは別にして「価値」は必ずある。

 

以前、「私の普通は誰かの特別、誰かの普通は私の特別」なんて記事を書いた。

 

感覚的にはそれに近い。

私が価値として承認しなかったが、誰かにとっては価値となりえた価値は数多くある。

 

つまり、こういうことだ。

 

【私は目に見える範囲にある作品の価値をすべて文章に落とすべきか】

 

それとも、

 

【私にとっての価値だけを文章に落とし込むのか】

 

そこが悩みどころだ。

私にとって価値だけでは作品に対してフェアではないような気がしている。

総てを承認することはできなくとも、目に見えた部分は承認するべきではないのか、と。

 

 

 

……二分論ではないことは百も承知だ。

だが、どちらかを選択した上でバランスを構築していかなくてはならない。

作品に対する客観と主観のどちらに比重を載せるのか。

 

現状は「主観」に傾いている。

故に、独りよがりな文章になっている気がしてならない。

 

どうすれば、上手く「客観」を取り入れることができるのだろうか。

それこそが、三位一体の文章を構築するのに必要な事なのだと思う。

 

意味の深化ではない、別のやり方の獲得。

 

まずは意識するしかないか。

客体として、他者を想定して文章を書く。

そこから、客観のレベルを想定して承認する価値を選択する。

 

取り敢えず、そういうやり方でいこうと思います。

 

それでは、また。

 

◆追記 価値の否定

価値の裏側には別の価値が存在している。

価値、というのはすべからく正しいモノだ。

 

あのラストシーンに泣くのも正しく、主人公を罵るのも正しい。

どちらの価値も承認できてしまう時に、そのどちらを選択するのか。

どちらの価値を否定するのか。

 

対立しない価値ならば、先のように選択すればいい。

だが、対立する価値の場合はどちらを承認すればいいのか。

 

間違っているものを否定するのではなく、正しいモノを否定する。

一番考えなくてはならないのは、ココだ。

 

【正しさの否定】

 

傍観者である限りこの答えは出ない

俯瞰している限りこの答えは出ない

 

僕は僕が信じるものを選択するしかない。

陳腐だけど、そうするしかないんだ。

 

どちらが正しいとかではなく、どちらを信じるか。

あるいは、そのどちらでもなく別の正しさを見つけ出すか。