huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

(本当の)友達

 

 

以前、私は友達ということを記事に取り上げた。

 

 

huzai.hatenablog.com

 

 

理想を押し付けているとか、そういう話をしたのだと思う。

他者を観るのではなく、頭の中の他者を押し付けている、という話をしたはずだ。

 

そして、理想ではなく現実でいいのだと思える瞬間があるはずだ、としたはずだ。

 

しかし、未だにその瞬間は訪れていない。

現実なんて所詮嘘しかないのだろうか。

 

というわけで、もう一度考える。

「友達」という存在について。

 

私が求める「友達」は本当に存在するのだろうか。

 

友達はランク制?

 

AB君は友達にランクを付けてそう」

B「……いや、そんなことないっすよ」

ランク外の僕「……」

 

友達にランクがある、なんて話をちらほら聞いたりします。

親友と、友達みたいなそういうレベルではなくて、友達を区別する話。

友達は友達だろう、と思いたい私からすれば嫌な話だ。

 

「優先順位一位の友達」「部活動の友達」「遊びに誘う友達」「話をする友達」

雑な区分けをすれば、このような感じだ。

 

上手い人はこれを隠すが、上手くやっている人は露骨に見え隠れする。

そんな愚痴は置いておくとして、こんなランクなんてものを内包している人間が居るらしい。

ランクインしていない人間からすれば、「これが世の闇か……」などと戦々恐々するばかりです。

 

大学であった「ノートを貸してくれる友人」とか「テスト日程を教えてくれる友人」とは別なんだよな。

そういう直接的な利害関係で結ばれているのではなくて、カースト的な利害関係でランクが生じていたりする。

 

これを聴いていて思うのが、「ランクアップはするのか?」ということだ。

話をする程度の友人がいつの日か、本当の友達になることはあるのだろうか、ということ。

よく分からない利害関係の間からホンモノは生まれ得るのだろうか。

 

友達はランクアップするものであるならば、やる気が出るというものだ。

友達っぽいナニカが友人になれるのならば、それはとっても素敵なことだ。

全国のぼっちが一斉に「友人経験値」を貯める事だろう。

 

ただ、そういうものでもない気がしてならない。

 

関係性ってやつは、造っては壊れて、造っては壊れてするものだ。

けれど、それでは至れない場所があるのだと思う。

 

魔法使いは賢者に成れない

コツコツ努力を積み重ねてきた『魔法使い』がこと職業の話になると、

『遊び人』に敗北するのは世界の真理だと思っています。

 

ドラクエ3』なる作品がありました。

『賢者』という上位職になるには「魔法使い」と「僧侶」をマスターすればよい、と私は考えていたが、

実は『遊び人』が転職することで『賢者』になれるというのが本当であった。

 

子供ながら、

どうして遊んでばかりいた人間が「賢者」になれるのか。

遊ばずにいた「魔法使い」や「僧侶」の立場はどうなるのか。

なんてことを考えていた。

 

社会構造も似たようなものかもしれないが、人間関係も似たようなものだと思っている。

 

魔法使いが賢者になれないように、ある人間は誰かの友人にはなれない。

 

どれほど「友人経験値」を貯めたとしても、「友人」にはなれない間柄もあるのだと思います。

その理由は、魔法使いが魔法使いだから賢者になれないように、私が私だから友人になれないだけの話。

あるいは、あいつがあいつだから、友人に成れないだけの話。

 

私が私であることを辞めさえすれば、それは変わるのかもしれない。

まぁ、そんなことは不可能なのですが。

 

関係性は一つじゃない

ただ、面倒なことに私は「友人」と「他人」しか軸を持っていなかった。

私の頭の中にある「友人像」に当て嵌まる人間と、それ以外の人間しかこの世に居なかった。

 

傍から見れば、「友人」のハードルが高いということになるのかもしれない。

「間」を許容せず、「偽物」を許容せず、「ホンモノ」だけを強要し続けてきたのだから。

 

人をもとめるからこそ

人を遠ざけてしまうこともあるのではないか

本物の関係を求めるからこそ

無条件の関係を信じられない

友達にはなれない

インスタントバレット 4

 

 

 

 

そんな上っ面の関係で

楽しくやろうってのがおかしい

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている―妄言録― 6

 

 

 

 

「友人」に対してシビア過ぎると世の中生きづらいものだ。

「そういう関係性」を許容できない人間は面倒くさいモノだ。

 

「他人」を「他人の延長線」に捉えるのか

「他人」を「友人の延長線」に捉えるのか

 

結局はその辺りなんじゃないかと思っている。

チャンスは振り向いたときにはもういないように、

友人になれるかもと思ったときには他人として距離が離れすぎてしまっている。

 

信じられると思ったその時には他人はもういないみたいな。

まるでラフメイカーみたいですね。

 

友達

現実や性質を明らかにした辺りで、最後の課題に取り組む。

 

『本当の友達』は存在するか。

 

確かな繋がりを喪失しても繋がっていられる確かな友人は存在するか。

私が私でいなくなったとしても友人でいてくれる人間は存在するか。

 

ボクはパズルに願ったんだ…

親友がほしい”って……

どんな時でもうらぎらない…

そしてうらぎられない…!

親友……!!

遊戯王 一巻

 

 

遊☆戯☆王 (1) (ジャンプ・コミックス)

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多分、小さい頃から願いは変わっていない。

そういう友人が欲しいという願いはずっと昔からあるモノだ。

 

空想の物語の中には数えきれないほどに観てきた。

自分のコト以上に本気になれる存在がこの世にあるのだと信じ続けてきた。

 

その願いは変わらない。

そして、この世界のどこかにそういう人間はいるはずだ。

 

今も昔も変わらずに願い続ける。

ただ、現在になって分かったのは、待っていてもなかなか現れてくれないということだ。

公園に行ってもミァハはいないし、ゴミ捨て場に行ってもピアノの音色は聞こえてこない。

 

誰よりも能力を高めたところで、仲間って感じがしてくることはない。

 

僕らを都合よく救ってくれる存在なんてこの世の中には存在しない。

他人は僕らの内面を勝手に救ってくれることは無い。

 

つまり、本当の友人なんてものは存在しないんだ。

漫画みたいな関係性なんてものはこの世の中には存在しない。

ただ、それに近しいモノは存在している。

 

あれほど綺麗な存在ではないし、綺麗な関係でもない。

けど、あれと同じくらいには楽しく、美しい関係は存在する。

 

多分。

 

偽物の友人関係

最後に少しだけ。

偽物の友人というものも案外悪いものではない。

本物の友人には思えない存在であっても、一緒にいると楽しいモノだ。

 

「本物」を求めるからと言って、「偽物」を手にしてはいけない理由にはならない。

 

もっと適当になれれば人生が楽なのだろうな。

その辺りも「生きることに不器用」な私らしいが。