huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

××にしかできないこと

 

『映像』に乗った『物語』の面白さ

『漫画』に乗った『物語』の面白さ
『小説』に乗った『物語』の面白さ

 

最近、「限定性」に近しいものを意識するようになりました。
フィクションにしかできないこと、ノンフィクションにしかできないこと、
言葉でしかできないこと、写真でしかできないこと、映像でしかできないこと、
小説でしか、漫画でしか、映像でしか…………

そんな風に、世の中には「限定性」というモノが存在しているはずだ、と思う。
今回は、媒体(小説、漫画、映像、ゲーム)なんて辺りを中心に考えていきたい。

●小説にしかできないこと

ライトノベルが叩かれるのは、漫画の粗悪品だからだ。
漫画でもできることを、言葉に貶めて作り上げられたのが、ライトノベルだ。
ライトノベルには「言葉」で表現しなくてはならないものが存在していない。
映像のために「言葉」が使われる。

言葉とは、もっと自由なものだ。
映像を表現するためだけに存在しているのではない。
セカイを壊し、創り、侵食し得るのが言葉だ。
そして、その集合として小説が存在している。

読み手の想像力を駆使することへの許容範囲がほかのそうしたメディアよりずっと大きい。
――ライトジーンの遺産 ヤーンの声

 

ライトジーンの遺産

ライトジーンの遺産

 

 

小説は他の媒体よりも「情報量」が少ない。
故に、補完のために自分や他人を用いながらセカイを構築する。
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映像のために言葉が用いられた小説は、許容範囲が狭くなる。
なぜなら、その小説は「再現」するものであって、「構築」するものではないからだ。
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「小説にしか」ということを考える上で、『想像力』を一つの切り口にしたい。

これで一つ思い出されるのが、「叙述トリック」だ。
言葉の並びによって、読者が無意識に「意味」を類推する。
そういう読者の無意識とか、想像力といったものが誘発するミスリードを利用するテクニック。
(詳しい事は、はてなダイアリーでも読んでください。)

 

十角館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫)

十角館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫)

 

 

あるいは「言壺」
言語中枢が狂わされるお話。
多分アレは、他の媒体にはできないモノではないかと思う。
ある言葉をトリガーにして、セカイが組み替えられる、自分の世界が揺さぶられる感覚。

 

言壺 (中公文庫)

言壺 (中公文庫)

 

 

あるいは「行間」
言葉の間に隠された、籠められた、想い。
上滑りする言葉が覆い隠した真実。
後になってから真実に気づく、気づかされる。

あるいは「曖昧さ」
言葉が不完全であるから、曖昧さを保っていられる。
その曖昧さゆえに生まれ得るモノが存在している。


そんな風に、
小説は「想像力」をありとある方向に向けてしまうことができる。
情景、人間、思考、場、関係、セカイそのもの、自身の中軸。
あらゆるものを刺激し、喚起し得るのが、小説という媒体ではないかと思う。

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●新しい文学体験
<月と珊瑚>
「空に水。水に空。月の空には砕け散った海がある」

『文学×朗読×イラスト』によって展開される新しい文学体験。
セカイと私が重なり合う不思議な感覚。

 

月の珊瑚(星海社朗読館) (星海社FICTIONS)

月の珊瑚(星海社朗読館) (星海社FICTIONS)

 

 


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●漫画にしかできないこと

それは、
「連続の中の一瞬の輝き」を切り抜けることだろうか。

そうか
俺が人物を撮らない理由

連続の中の一瞬の輝きを
俺はカメラに収める事が出来なかったんだ…

――イエスタデイをうたって vol.3

 

 

イエスタデイをうたって (Vol.3) (ヤングジャンプ・コミックスBJ)

イエスタデイをうたって (Vol.3) (ヤングジャンプ・コミックスBJ)

 

 

漫画の魅力として、「一瞬の輝き」は確かに在るのだと思う。

例えば、アイマスREX2巻響の「かなさんどー」
例えば、ざわわん2巻雪歩の「戻ってきてください プロデューサー」
例えば、さよならピアノソナタ真冬の「ここにいる」
例えば、プラスティックメモリーズスミレの「ほらやっぱり私幸せだ」
例えば、封神演義の……
例えば、……

物語のピークに最高の一枚をぶつける。
たった一瞬の風景に僕らは釘づけにされる。

その一瞬は切り抜かれているからこそ、
映像のソレよりも殺傷力を持って僕らの心に突き刺さる。

一番は、多分そこなのだと、私は思っています。
好きな作品ほど、忘れられない一瞬が多い、ような気がしている。

もちろん、その過程にある魅せ方や切り取り方
なんていった表現の仕方に魅力があることは間違いありません。

けれど、あの一瞬だけは漫画にしか表現できない。

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●漫画を利用したギミック
<ミサイルとプランクトン>
「世界は■■した」

漫画ならでは、切り抜かれた世界ならではの仕組みが隠される。

 

ミサイルとプランクトン1

ミサイルとプランクトン1

 

 


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●映像でしか表現できないこと
映像は他の媒体よりもずっと『生』に近い。

「それは話しかける言葉こそが唯一無二の生きたエロゲーであると信じるからだ。
 脚本に起こされたエロは、その時点で死んだ言葉となり、抑揚を失う
――田中ロミオの世相を斬らない

 

 

他の作品のソレとは異なる、映像だけの特権。
『生』という感覚は他の媒体にはない感覚だ。

そう、『近くて、遠い』という感覚だろうか。
作品に対してどうしようもない部分が映像には存在している。
無条件さというか、ズルいというか、なんというか。

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『ココから先は、恣意的な話になります。
 ので、よく分からなければ飛ばしてください』

『生きている』モノは他媒体に比べ、伝達力がずば抜けている。
映像もそうだし、音楽だってそう、生きているモノの声は染み渡る。

そういったものを昔の人は生命力とか、なんだとか、言ったりしていた。

今のご時世、ネットには言葉の死骸が溢れ返っている。
あるいは、ゾンビのように死んでいるんだか、生きているのか分からない言葉が落ちている。

そういう空想というか、妄想に近い存在よりも映像や音楽が人を救う、というのはよく分かる。
だから、目に見えない誰かを救いたいのならば、言葉よりも映像や音楽を使った方がいい。
あるいは、ゲームとか。

そういう無条件で個人を響かせる能力を持っているのが「生きてるモノ」の特権だ。
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◆物語<ストーリー>

『映像』に乗った『物語』の面白さ
『漫画』に乗った『物語』の面白さ
『小説』に乗った『物語』の面白さ

例えば、
ライトノベルのやはり俺の青春ラブコメは間違っている
・コミック版のやはり俺の青春ラブコメは間違っている
・アニメ版のやはりおれの青春ラブコメは間違っている

この三つの面白さは同じであるのだろうか。
この作品の場合、媒体は違えど、乗っている物語はほぼ同じだ。

分かりにくければ、他の作品で考えていただいて構わない。
最近のアニメはどこかに原作があるので、それと比較して考えてほしい。

同じ物語を違う媒体で触れる意味は何か

あるいは、
その媒体でしか表現できなかったモノはあるのか。


物語の面白さ、は全ての媒体に共通して存在している。
どの媒体にも物語の面白さは載せられている。

だからこそ、

小説だけの、漫画だけの、映像だけの
面白さ、についても言及していく必要があるのかなーと思う。

作品が内包する『面白さ』の切り口として、『媒体による表現』は良いかもしれない。
表現の違いに、目を付けることで、作品を深いところまで切り進むことができる。
そういう別の切り口があっても良いのだと思う。

 

◆終わりに


物語を小説に乗せた理由
物語を漫画に乗せた理由
物語を映像に乗せた理由

 

そういうものがどこかに必ずある。
わざわざその媒体を選んだ理由が。

もし、そういうものが無かったとしたら、無くなってしまったなら、
この世の中には物語だけが残ってしまうのだろうか。
とゆーか、そしたら物語ってなんだ、って話になるな。

これまで、物語を世界、とかセカイと評してきたが、
今一度問い直す必要があるのかもわからん。


媒体ごとの特徴も含めて、
ある程度時間を置いてから問い直そう。