コンテンツが死ぬとき
コンテンツには人間が必要だ
それはまるで……
「コンテンツは燃えやすい方が良い」なんて話をしたかと思います。
燃えやすいコンテンツほど集客しやすく、爆発的に人を集める事が出来る。
その反面で、燃やされたコンテンツは世界から消えてしまうのだけれど。
でも、その熱量に耐え得るコンテンツというのも存在している。
今回は、そんな話を少しだけ。
■東方project
「東方project」ほど方々に燃やされたコンテンツを私は知らない。
小説になり、音楽になり、ゲームになり、動画になり、絵になり、物語になり、娯楽になり、金になり・・・
「東方project」は現実の熱量に晒され、ネットという核融合炉にぶちこまれ、二号機のように鳥葬されたが、まだこの世界に在り続けている。
他にも似たようなコンテンツはたくさんある。
急激に熱量に晒され、燃やされながらも、世界を保ち続けているコンテンツが。
私が好きなものでいうならば「アイドルマスター」とか。
どうしてこういうコンテンツが残っているかというと、
「そこに人間がいるから」だと、私は思っている。
■人間≠集団
逆に言うと、最近のコンテンツには人間がいない。
あそこにいるのはただの集団だ。
「集団」というものは本来好ましいモノだ。
「一人ではできないこと、仲間とならできること」なんて歌にあるように、
集団でなければ成し遂げられないことというのは存在する。
つまりそれは、「人」が「集団」になると、人以上の力を発揮できるようになる。
ライブとか、フェスとか、そういったお祭りみたいなものは
そういった「集団」の力が働かないと成り立たない。
「集団」の力が働けば、そんな大きなことだってできる。
だから、「集団」というのは本来好ましい。
けれど、「集団」は人ならざるもの、なんだ
人間が集まってできた、人間以上の化物という存在、
だから、コンテンツをぶっ壊してしまえる。
集団が人間を壊してしまえるように。
コンテンツを壊してゆく。
■人間が必要
……インターネットやSNSが発達したことで、
僕らはディスプレイの外側にあるコンテンツに気が付く。
それらは「共有」を必要とし、その先には「集団」という光があり、
コンテンツで自己充足できない人間には眩しすぎるその光に多くの人間が飲み込まれた。
そして彼らはディスプレイを壊し、その上で「みんな」と踊り狂うようになる。
それを見かねた「人間」はひっそりとディスプレイから抜け出し、新しい箱に入っていく・・・
コンテンツには「人間」が必要だ、というのが私の意見だ。
燃える炎ではなく、燃えているコンテンツを見てくれる「人間」が。
見続けてくれる「人間」が。
そして、そういう人間がいる限り、コンテンツはなくならない。
ディスプレイの内側に居る「人間」がいる限り、その世界はなくならない。
■終わりに
火を起こし、熱を保つにはディスプレイの内側の人間がいる。
その炎を大きく燃え上がらせるにはディスプレイの外側の人間がいる。
最近は、炎を燃え上がらせたい人間が多くなっているのでしょうか。
というよりも、小さな火を燃え上がらせようとする人が多くなっているのか。
ほんと、何でもかんでも燃やされていたら、嫌になってしまうな。
では、「感想ブログ」を書いている人間はディスプレイのどちら側にいるのか。
多くの人間は多分、「ハイブリット」的なものにあてはまるのだろうか。
ディスプレイの内側を覗いてみたり、ディスプレイの外側で踊ってみたり。
中に入って「うっうー」外に出てって「うっうー」アレ?同じか。
一部の人は「中に入るため」にブログを書いていたりするのだろう。
ディスプレイの内側に浸りきってから、それを並べ立て、他人のディスプレイを見に行く。
それからもう一度ディスプレイに入って奥へ奥へと沈み込んでいく。
私はどっちなのだろうな。
後、コラム的なものを書き続ける人間がいる。最近の私だ。
「自分の内側」に浸りきって、中から引っ張ってきたものを晒している。
引っ張りあげてみると、余り変わっていないモノや変り果てたものもあるし、変なモノがくっついている時もあれば、何かが落ちているときもある。
そういうのを定期的にしておかないと、「溢れちゃうんすよ」
- まぁ、今回はそんなところで。