多様化しても世界は変わらない
■多様化なんて意味はない
最近の世の中では「多様化」なんて言葉が流行っているらしい。
そんな言葉が「流行っている」わけです。
「消費者の行動分析」なんてものをやれば、
確かに画一的なモノサシでは人間の行動を図れなくなったのかもしれない。
だけど、それで変わるのは「モノの売り方」であって、「我々」ではないんだ。
今まさに「多様化」の先に居る「我々」をどうこうするようなものではない。
特に、「個性」なんて話になるとさ。
■多様化したのは「消費」であって、「人間」ではない。
それはつまり、あらゆるものが「消費」の対象になったということ。
「消費」というのは「個性」を演出する一番手っ取りばやい手段だ。
こんなにお金をかけたから、こんなに本棚が埋まったから、こんなに時間を費やしたから、
だからソレは「私のもの」だ。
なんてさ。
本当は「消費」が「個性」ではない。
上手い事演出してくれるから、そのことを忘れてしまいがちなのだけれども。
そのため、「無個性」な人間ほど、多くのお金を費やしている事、多くのコンテンツを消費したこと、が大切であると錯覚している。
一番わかりやすい「趣味」の領域を例に出そう。
それも、私が好きな「アニメ」の領域の話をしよう。
「消費」が「個性」の証明である人間は、「膨大なアニメ」を観ている。
色んなところで挙げられている、「アニメを語るのに必要なアニメ」とか「玄人が好むアニメ」とか「一般人にも進められるアニメ」とか「名作100選」とかを観ようとする。
なぜなら、それらを「消費」しない限り、「アニメ」は私のモノにならないと思っているから。
似たような話だと、「自称」読書好きの横に積まれた「本の山」とか、「自称」ゲーム好きのブックマークに積み重なる「攻略サイト」とか、名作だけが積まれた「棚」とか。
結局のところ、
「消費しやすくなった」から「多様化」しているように見えているだけだと思っています。
人間自体はさほど変わっていなくて、ただ演出がきらびやかになっただけ。
もしかすると、スペックは下がったくせに演出だけ派手になったみたいな。
何の話だっけ?
まぁ、そういった演出のおかげで人間は個性を表現しやすくなった。
恩恵を受けているのは多様化の先端にいる人間ではなく、多様化の入り口にいる人間。
「浅い」人間が「個性」を演出できるようになった、というだけの話。
■みんなが享受できるもの
一番救いようがないのが「中途半端」な人間だ。
「深い」場所にいる人間は浅瀬までその声を響かせることができる。
「浅い」場所にいる人間は波打ち際で飽きるまで踊り続けていられる。
「中途半端」な人間だけは誰にも触れることなく、漂い続ける。
中途半端な人間だけが、みんなで享受できる「価値」を提供できない。
だから、何者にも承認されないわけだ。
多様化の恩恵は「浅瀬」を盛り上げた、ということだろう。
そしてそれは、中途半端な人間が引き上げられるか、逃げだす理由となった。
享受される領域に居ない「半端もの」にとって「多様化」なんて
たいした意味は持っていないというわけです。
◆終わりに
「多様化」という割には、自分のスキなモノが「承認」されていない。
私はそれがすごく、不思議だった。
「あんなにいい作品がどうして認められていないのか」なんて思った。
最近になって気が付いたけれど、僕が好きなものは
「みんなが享受できるモノ」ではないということだ。
別に、「あんな馬鹿には理解できない」なんてお話ではなくって、
普通の人は「そういう傷」や「歪み」なんてものを持っていないのだ、ということ。
僕らが持っている「傷」や「歪み」は普通の人からしたら
「消費」する対象、つまり「コンテンツ」の一つでしかないんだ。
僕が「涙」し「憧れる」ようなものは、「消費」されるものに過ぎない。
「キモオタの叫び」は「コンテンツ」でしかなくて、「共感」する対象ではない。
「ぼっちの願い」は「コンテンツ」に過ぎなくて、「一過性」のもので永遠ではない。
もしも、
人間が変わったのだというのなら、
ああいうモノが増えてくれると嬉しいのだけれどな。
早いところ、
「無個性」や「未熟者」が承認される「多様性に満ちた世界」が来れb