huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

在るべき私(ブログ)の姿  99の言葉を超えて

 

プロデューサーさん!100記事ですよ!100記事!

 

 

この記事が私の100個目の記事となる。

カテゴリーを付与させてみると、私の傾向が明らかになる。

そして、最近の私の現状というものも。

 

それ以上に、99の言葉の先に描く理想が見えかけてきた。

私がブログに期待していた、いや、インターネットに期待していたこと。

今回はそんなことについて書いてみたいと思います。

 

最初の2つの記事は過去と現在を照らして変わった私を。

最後の1つの記事は未来に期待することを。

 

それでは、始めようか。

 

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◆コンテンツを突き付ける


99の投稿記事にカテゴリーを付与してみて気が付く。

『コンテンツを私に突き付けるためにブログを書いていた』

 

最近書いているプラスティックメモリーズも私に問いを突き付けていた。

 

「キャラクターを愛することと、作品を愛することは同義か?」
「アイラが可愛ければ、作品としての不誠実はなかったことにするのか?」
「お前と作品は本当に繋がっているのか?」

 

プラメモは素敵です。アイラちゃんが可愛いので。
酷評しているけれど、実は結構好きなので。
今回の「ので」が取れてしまった瞬間には悶え苦しみました。

プラスティック・メモリーズ Say to good-bye(1)<プラスティック・メモリーズ Say to good-bye> (電撃コミックスNEXT)

……最近は、「突き付ける」ということに拘泥しすぎてしまっている。
昔、というか以前ぐらいは作品そのものを視聴者として楽しみながらブログが書けていた。
今ももちろん作品そのものを楽しんではいるが、ブログに反映なされているかは分からない。

最近の周囲の出来事的に「超える」や「理解」といったキーワードが重視されているのが原因だ。
作品と相対する際に、「不誠実」と向き合うことや「不理解」と向き合うことが酷なほどに求めている。
目に見える作品の領域の全てを認めなければ、作品と向きあった事にはならないと考えてしまっている。

私は昔のように「神になろうとしている」のかもしれない。

 

huzai.hatenablog.com

 

コンテンツと対峙することで、私はそれを理解しようとする。
そのために、私はディスプレイの向こう側もこちら側もはるか彼方まで行き来する。
高いところから見下ろせば、作品としての「不誠実」が目につく。
ディスプレイの内側にいればそんなことは気にならないというのに。(ただしプラメモを除く)

多分、私はディスプレイの内側だけでは満足できなくなったのだろう。
いや、ディスプレイの外側に内側をより知るためのナニカがあると考えている。
「センスは知識で獲得できる」なんて表題があるように、「世界」を理解するのに「外側」を利用しようとする。
その結果がどこに行きつくかは分かりませんがな。

 

……随分と話が逸れてしまったように思う。
コンテンツと「向き合う」という「事実」に拘泥してしまっていたのだろうな。
そうすることが「本当の愛」だと勘違いしていた。

「知る」ことが「愛」ではない。

.hack//G.U.+ コミック 全5巻完結セット (角川コミックス・エース )

愛し方ばかりを考えて、愛されることを忘れてしまっている。
作品はいつだって私を観てくれていたというのに。
彼女はいつだってそばにいたというのに。

私は遠くを、彼女の輪郭ばかりを追いかけていた。

彼女を「知る」よりも彼女と「共に在る」

終わりのクロニクル (6上) (電撃文庫―AHEADシリーズ (1175))

これが多分、私の先を握るカギだ。
あのまま進んでいたら、私という「型」で作品をくりぬく人生になっていた。
クッキーのように、私という型に作品を押し込めて、理解した気になって。
そんな「押し付け」をしてしまうところだった。
それこそ、私が嫌い、比企谷が嫌ったことだというのに。

 

「向き合う」ということ
「物を語る」ということ
それを忘れてはならないよ

 

 

◆言葉の遊び


『言葉をケチるような人間』

ライトジーンの遺産

カテゴリーを付与する関係で、ザッと99の記事を舐めまわしてきた。
最近の私は「言葉の遊び」が随分と減っているな、ということだ。
(ここでいう遊びは機械等に付けられる「遊び」に近い)

 

huzai.hatenablog.com

 

 

huzai.hatenablog.com

 はやく、みくにゃんに会いたいにゃ。


この頃は随分と「言葉の遊び」があった。
本筋とは関係の薄い内容をぴょこぴょこと交えながら書いていた。
ところどころ周囲に喧嘩を売りながら文章を書いていた。

 

それもこれも良質な萌えアニメに出逢えていないからなので。
語尾を真似したくなるようなキャラクターがいなからなので。
デレマスがやっていないからなので。
プラメモ・・・?エラー聞き取れませんでした。


なにはともあれ、最近は文章が硬くなってしまっていたわけです。
硬くなって嬉しいのはアレくらいなものなので、もう少し遊びを持たせたいな。

 

文章に必要なのは「正しさ」ではない。
「そう思えること」が何よりも大切なのだよ。

 

◆そろそろ本格的にブログを始めようか。

――終わりを知り
 僕らの世界を始めようか 

 

99の投稿を振り返り、100を超えていく私は何をするのか。

 

基本的な方針は恐らく変わらない。
コンテンツと私という存在が対峙し、その結果をブログに反映させる。
その結果として、「己の在り方」「コンテンツとは」「この作品とは」といった文章が生まれる。

 

ただ、これからは「他者」をブログに取り入れたいと考えている。

以前も書いた「チャットを通じた対話」である。

 

自身とは異なる存在としての「他者」と対峙する。
「コンテンツ」は解釈に文句を付けないが、「他者」は文句をつける。

 

「お前はまだま基本骨子の想定が甘い!!」
「お前の理想はただの借り物だ!」
「では、採点でも――してやろう!!」
――劇場版 fate UBW

劇場版 Fate/stay night UNLIMITED BLADE WORKS (初回限定版) [Blu-ray]

 

その結果、おのれおのれおn(ryとなるのかな。


対話は多くの事実を浮き彫りにする。
己をぶつけ合う過程で、綺麗に飾った言葉は剥がれ落ち、基本骨子が甘いものは打ち砕かれる。
僕らが壊さずに守ってきた「欺瞞」も「虚偽」もすべて壊される。
「ホンモノ」だけがその場に残る。


……実際は、そう上手くいくものではない。
他人に近づくために自分を殺すのが世の常であるので、「ホンモノ」以外も残ってしまう。
あるいは、「未熟な理想」が「虚偽」によって叩き潰される恐れもある。

だが、大切だからと言って大事にしまっていても理想は叶わない。
大切なものを棺桶にしまって墓まで持っていくつもりならば別だが、
叶えようと思うのなら、現実に晒さなくてはならない。

 

『そういう場をつくりたい』と私は思っている。

 

私は他人になってくれる人間を求めるよ。
そうすれば、私も他人として対峙しよう。

 

まぁ、それ以前に観てくれる人を増やさなければこれも機能しないか。
がんばらねーばねーばねーばぎぶあぷ。