作品を楽しむために
煮詰まるってのはさ、こーなってるんだよね。
だから、広い景色が必要なわけ。
――SHIROBAKO
世の中には様々な方法論が存在している。
本屋に行けば「○×法」とか「△△を変える100つの法則」みたいに方法論が溢れ返っている。
世の中には本当に必要なのか疑ってしまうようなものから、納得してしまうものまで様々ある。
だが、それに対して声を上げる人間がいる。
「理論で掴んだものなど、偽物だ」
今回は、そんな理論を嫌う人について書いてみる。
そんなつもりでした。
◆理論よりも先に――
方法論が溢れ返るこの世の中で、それを見下している人間がいる。
「理論なんか捨てて『やってみろよ!』ベネッチ!」
違うか。
『絵の描き方を勉強する前に、まずは絵を描いてみろよ!』
『小説の書き方を勉強する前に、まずは小説を書いてみろよ!』
『会話の仕方を勉強する前に、まずは話しかけてみろよ!』
『どうしてお前は行動の前に勉強を挟まないといけないんだ!』
『分からないことに踏み出すのが怖いのか!?』
『そんなんじゃ、何も掴めない』
今回の話とは毛色が異なりますが、例として少しだけ出してみました。
「何かを始める際に、理論から入るか、実践から入るか」
私個人としてはどっちだっていいだろう、と思います。
理論から入ってもどこかで実践が必要になる。
実践から入ってもどこかで理論を求めてしまう。
どちらが偉いということは無くて、
どちらが優れているということでもない。
ただ『効率』というものを考えるとそれはまた違った話になるのだろうな。
◆レベリング
なにかをマスターするには10000時間必要みたいな話がある。
アニメ
1話 0.5時間
12話 6時間
1667作品≒10000時間
アニメオタクを自称するには、1667作品は観なくてはいけないらしい。
24話構成だったり、劇場版などを含めることを考えたらもう少し減るか。
いや、CM等を除いたら実質はもう少し増えるのだろうか。
とにかくだ、アニメの一流を自称するためには1600作品ぐらい観ないといけないらしい。
アニメ10選とか言ってられないな!
今の時代はアニメ1000選ですよ!1000選!
・・・・・・実際、こんな馬鹿げた数のアニメを観る人はいない。(と思う)
一つの作品を必ず2周していたとしても800作品は必要となる。
つまり、どこかで偉そうにアニメ評論なぞを語っている人間もどうせ観ていて100作品ぐらい。
にもかかわらず、偉そうにアニメ評論を語る人間の文章は面白かったりする。
彼らと私では、レベリングの効率が圧倒的に違う。
私が一つの作品からスライムほどの経験値を獲得するなか、
彼らは一つの作品からはぐれメタル級の経験値を獲得する。
それでは到底追いつけない。
それでは到底物足りない。
そして、数を熟すことを目標とし、目的を喪失し、感情が瓦解する。
どうすれば、私ははぐれメタル級の経験値を獲得できるのだろうか。
◆レベルアップのやり方
「知っている」というのは大きなアドバンテージとなる。
昔、はぐれメタルを倒すために「毒針」が有効であった。
昔、はぐれメタルを倒すために「ぎんのたてごと」を鳴らし続けたことがあった。
現在の例を出すならば、「オリョクル」とかになるんでしょうか。
私はデチ公ことごーやが可愛かったのでそんなことできませんでしたが、アレは良いらしい。
そういった
「知っているだけ」で「学習が加速する」という事実は存在する。
というか、今の時代はソレが主流になっている。
「最初に方法論が溢れている」なんて言ったように、
「事前知識」で学習を加速させるのが当たり前だ。
ベースとしての個人を作り上げてから学習を進めれば、早くそれを習得することができる。
つまり、
レベルアップを効率化させるには「事前知識の収集」が必要である。(Q.E.D)
……そんなことなら苦労してねーです。
ここから本論
◆感性の領域
今回、私が書きたいのは「感性の領域」だ。
作業を効率化した先にある攻略がメインならば、事前知識やノウハウを知っておくべきだ。
だが、人間としての「ナニカ」を構築するためには、それでは不十分である。
「攻略するため」ではなく「楽しむため」にはどうレベルを上げたら良いのか。
◆異なるレベリング
実践派
「戦闘の中で最適な動きを身につけるタイプ」
理論派
「最適化された理論を実践を通じて最適化するタイプ」
人によって最適なレベリングの方法は異なる。
脳筋は「とりあえず動く」、頭でっかちは「理論を知る」。
そして、普通の人は「両方やる」。
どちらか片方のやり方で大成できると思いあがっている人間以外は、両方を器用に使った方が良い。
実践で行き詰れば理論に手を出し、理論が分からなければ実践してみればいい。
どちらの方が偉い、なんてことは絶対にない。
ただ必要なのは、「腑に落ちる瞬間」である。
最近の世の中はこれが欠けている。
何も知らない人間が、知らない出来事について語れるぐらいには、情報が増えた。
情報量が増加したことにより、理解した先にある出来事に容易に触れられるようになった。
その結果、理解を欠いた人間が現実に跋扈するようになった。
要するに、「悟りやすい」世の中になった。
それでは何も進まない。
それでは何も得られない。
彼らは「理論派」であるように見えて、その実は「空論派」だ。
最適化された理論をそのまま利用するだけで、自分の力はどこにもない。
だから、こんなにも空虚。
レベルアップしたのではなく、強い武器を手にしただけ。
その武器も弱点属性に特化したもので応用力がなく、一度きりの強い武器。
ゆえに、彼らに深化も進化もなく、レベル1の人間がそこには残り続ける。
◆レベルアップのために
先の話は以前も書いた。
外注してたら、自社内にはどんなナレッジも蓄積されないよって話。
「考える事をアウトソースする」
レベルアップをするためには、自分の内側で処理される工程が必要となる。
では、自分の感性を効率的に鍛えるためにはどうしたらよいのか。
どうすれば、もっと楽しめるようになるのだろうか。
①出会いを大切にする。
大事な言葉を初めて読む、という行為はそれこそ初めの一度しか出来ない。
だから新庄は身を捨てるように心を澄ませ、後悔の無いように手紙の文章を読んだ。
――終わりのクロニクル
出会いと言っても「人」に限った話ではない。
アニメでも、音楽でも、風景でも、文章でも、なんだってそうだ。
僕らがソレと出会えるのは「一度」しかない。
出会うことなく遠巻きに観ているだけでは、腑に落ちる瞬間など手に入らない。
②出会えるまで繰り返す
それ以外なら、腑に落ちる瞬間まで繰り返すことだろうか。
一回目で、「腑に落とす」ことは可能であっても、「落ちるまで」繰り返す。
そうすると、「そういうものである」から「そういうものだった」と思えるようになる。
③非日常の確保
同じことを繰り返していれば誰だって飽きる。
刺激が無い空間に放り込まれれば、いずれは同じ解だけを導き出す機械となる。
一定量の刺激を確保することによって、当たり前を特別な事にすることだって可能となる。
もしかすると、これが一番大切なのかもしれない。
ソレの刺激に慣れて、いつの間にか「特別」ではなくなっているのかも。
それじゃあ、楽しいモノも楽しめないよな。
◆終わりに
「感性」と「理論」から、「どうやって楽しむ」に繋げるつもりだった。
結局、どちらも必要という理屈から抜け出せず、こういう結論に落ち着いた。
所謂「倦怠期」みたいなものなのだろうな。
童貞はそれに気が付かず、「好きではなくなった」と勘違いしてしまう。
「特別」っていう感覚が薄れてしまったから、「楽しめなくなった」なんて勘違いしてしまう。
「特別」を噛み締めるために、別の「特別」に触れるのがその抜け方かなって思います。
君が悪いのでもないし
ソレが悪いのでもない。
ただ、間が悪かっただけだ。
「特別」だと思える事。
「特別」だったと思える事。
それが、「楽しむ」うえで大切なことではないかな。