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huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

君の世界がつまらないだけだよ?

「身体は言葉で出来ている」huzai.hatenablog.com
これは、以前の私が紡ぎだした言葉である。
言語が世界観(≒社会)をつくるという話ではなく、もっと身近な言葉が私自身を構成しているという話だ。

多分、私に根付いている言葉は『言壺』以降ないのだと思う。
プラメモも、IBも、過去の私が出会った言葉が構築する回路を走っているだけだ。
新しい私の言葉(思考)を構築するようなものではない。
ここにきてようやく気が付くことができた。

「私がつまらない人間になったわけではない。
 私の観測領域がつまらなくなっただけだ。」

生徒会の一存 碧陽学園生徒会議事録1<生徒会の一存> (富士見ファンタジア文庫)

さよなら、生徒会長。

つまらない世界のつまらない結論

過去の私はこんな文章を書いている。huzai.hatenablog.com

繰り返される言葉にこそ個人の執着があるのだ、という話。

なぜこの記事を取り上げたかというと、
つまらなくなった文章・作品の多くが、個人の執着だけで構築されているからである。
別の言い方をするなら、何も見えなくなってしまっている、という感じだ。


同じ言葉を、刺激も変化もないままに聞き続けていると、視界が狭くなる。
その環境が作り出す思考回路が延々と強化されて、他の見方をすることができなくなってしまうんだよね。

つまり、
「同じ結論に辿りつく」ことは個人の執着のサインであり、
つまらない世界に閉じ込められているサインでもある。

あなたのソレはどっちだろうね。
多分、あっちだよね。

それでも世界は美しい?なんて本当だろうか。

アメフラシの歌が聴きたくなりますね。
「それでも世界は美しい」オリジナル・サウンドトラック

「それでも世界は美しい」ということは真実である、と私は思っている。
世界が美しくない、なんて話になったら救いがないので。私はそう信じています。

けれど、

「世界が美しい」から「私の世界も美しい」なんてことはない。

残念ながら、我々は「この世すべての輝き」を感じることはできない。
確かにそれがあるのだとしても、我々が触れられるのはほんの一部でしかない。
私が感じられる「美しさ」が必ずしも目の前にあるとは限らない。

そして、
誰かが言う「輝き」を感じる必要なんてどこにもない。
直近の作品を例に出そう。
「がっこうびより!」という作品がある。
複線みたいのがあって「すごいぞー」って騒がれてた作品みたいに認識していればいいです。
ああした作品には、「どうでもいいような変化」を取り上げる人が現れる。

「実は、あのシーンで彼女が戸惑っていたんだよ」
「実は、あの人は彼女としか会話をしていないんだよ」
「実は、あのシーンでもうすでに……」
「実は、ガラスが割れていたんだよ……!!!」

ある種謎解きのように、「ギミックを解説する」人が現れる。
ギミックなんてものは「知っているかどうか」や「気づけるかどうか」の違いであって、
それに気が付くこと自体にはなんの意味もない。

彼女が私たちとはズレていたこと、が大切なのではなく、
彼女が私たちとズレていることで何を示すのかが大切。
あるいは、それで私たちが何を感じ取ったのか、だろうか。

そういうギミックや事実の上に打ち立てられるものが大切だ、と私は思っている。
(「すごい仕掛けがあったのん……」で終わるのならミステリを読んだほうが100倍良い。)

だから私はそういう些細なギミックという「輝き」はそれほど注視していない。
少なくとも、そういうギミックだけを取り上げてキャッキャッするということはしたくない。

もし、この作品がギミックオンリーで終わってしまうものならば、私はこの作品を忘れるだろう。


……ようするに、
「ここには、私が求めるようなものはなかったのだ」

世界との向き合い方はそれぐらいでちょうどいい。

言葉と出会いたい

以前は気に入ったブロガーが紹介する作品を追っていたのだが、数年前から更新が途絶えてしまっている。
つまり、最近の私には言葉との出会いがない。



簡易なコンテンツに逃げてしまっているのが問題なのだろうな。
現在ある回路を拡張・新築してくるような体力の要る読書体験、が必要だ。
また、良い言葉と出会うためにも「観測領域」を変える・増やす必要があるのだろうな。

そうでもしなければ、このつまらない世界に押し潰されてしまうだろう。