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huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

期待とコンテンツの関係性

コンテンツ

―――
勝手に想像し、
勝手に錯覚して、
勝手に裏切られてください。
―――


無意識のうちに行っている
「期待を寄せる」という行為。

それは酷く残酷な行為である。
期待に応えないコンテンツは
「期待外れ」という烙印を押され、
フラットに評価をして貰うことすら叶わない。

誰かが勝手に押し付けて、
誰かが勝手に落胆する。

今回は、
「期待」と「コンテンツ」について考えたい。

そもそも「期待」とは何か。

―――
言葉を定義する。
それは、永遠に拡がり続ける言葉に枷を与える行為。
我々は永遠を愛せない。
―――

「期待」という言葉を間違ったまま使い続けると、
答えの出ない袋小路に迷い込むことになる。

だから、ここでこの言葉に「枠」を設ける。

期待とは、
【個人がコンテンツに押し付ける虚像】である。

実例を挙げるとすれば、私のシンデレラガールズの感想が丁度いい。

・アイドルとしてあの場にいない「渋谷凛」がアイドルとして選択を迫られたら。
・「前川みく」がファンから「ねこではないみくが好き」と言われたら。
・うさみんをもっと出して欲しい。

過去記事を思い返すと、こんなことを書いていた、と思う。
私の体験してきた出来事から、彼女たちの壁は何かと考えたものや、
純粋に、もっと彼女を観たいという願望を書き連ねていた。

これらは、デレマスを観ながら私が考えていた「未来予想図」や「願望」である。
作品が私に示した「現実」とは違い、
私が作品に付け加えている「虚像」である。

ようするに、

【期待とは現実に基づく虚像である】

とだけ、認識してくれればうれしい。

期待が問われるとき

―――
雪ノ下雪乃ですら嘘をつく
そんな当たり前のことを許容できない自分が
俺は嫌いだ
―――

「虚像を押し付ける」などというと
期待という行為自体が「悪」である、と思えてくる。

比企谷という男は「期待」という行為を嫌っている。

期待を裏切られた時、
人は現実を許容できない
その対象を許容できない

「裏切った」という言葉自体が間違いなんだよな。
自分が勝手に想像をした結果に、勝手に裏切られたと感じただけだ。
彼女が何かをしたというわけではなく、ただ自分の認識が間違っていただけだ。


「虚像」と「現実」が重なり合っているときはそれでいいかもしれない。
その場合、人は「期待通りの現実」を生きる事ができるから。

だが、
「虚像」と「現実」がズレてしまった場合に、問題が発生する。
自分の認識を疑わず、相手が裏切ったのだと認識してしまう。
相手の現実を許容できなくなる。


別に相手に押し付ける「期待」だけがそうなのではない。
押し付けられる「期待」もまた同じである。

つまり、
【「期待」はズレた時だけ問題とされる現象である】

「虚像」と「現実」

―――
夢の中なら、
私は世界を救うヒーローになれる。
現実を超えた現象を確立できる、
だからこそ、夢は面白い。
……本当にそう思う?
―――

そろそろ本題に入っていく。

虚像とは、個人とコンテンツを軸に無限に拡がり続ける。
現実とは、限られたスペースと時間の中で表現を続ける。

期待とは、「虚像」であり、「虚像とは無限」である。
それ故に、「有限である現実」は虚像を叶え続ける事は叶わない。

つまり、次の式が成り立つ

【虚像>現実】

全ての「期待」を救済できるほど、現実(≒コンテンツ)は無限ではない。
コンテンツが全ての輝きを持つことは不可能である。

期待は現実にひれ伏すか?

―――
有限である本物を
無限に近しい偽物が壊してしまう
―――

時折、コンテンツは期待を超える。
だからこそ、人は「期待を超えるコンテンツ」が「ホンモノ」であると認識してしまいがちだ。

だが、それは誤りである。

期待を超えるとは、
【意識の外側からやってくるナニカがある】ということ。
必ずしも、自身の妄想よりも先鋭化された何かがあるということではない。

だから、
妄想より先鋭化されていなくても面白い作品はある。
自分の「期待」なんか忘れてしまうような作品がある。
そういうコンテンツに出逢えたら、このことは解ってもらえると思う。

僕らは期待をするべきか

―――
過程があったから
無駄があったから
最後に至ることができる。
―――

これまでに私は期待とコンテンツの関係を定義づけてきた。

期待とは、
・虚像であり、無限であり、現実を超えて拡がり続ける。
・認識がズレた時にだけ問題になる
・現実が個人の意識の外側にあるものを魅せた時に、超える事が出来る

そして、これが最後の話だ。
「僕らは期待をするべきか」




「期待をしないでコンテンツを観る」
という行為は、「偏見」を持たずにコンテンツに触れるということである。

私のように、765の幻影を346に重ねながら観るということをせず、
ただただ、346プロダクションを「受け入れ続ける」ということ。

それはつまり、
【「私」からの解放である】

これまで、「コンテンツ」と「私」を軸にしていたものが、
「コンテンツ」だけを軸にして意識が展開をされていく。

おそらく、
こうしてコンテンツに触れる事は、
他のどんなやり方よりも「フラット」に観れるのではないか、と思う。
期待をしてしまえば、作品をその方向で捉えてしまうから。

だから、
「期待を押し付けない」ということは
コンテンツに対して何者よりも「平等」なのだ。








だからこそ、
私はそれを否定する。
我々はコンテンツに対して「平等」である必要は無い。
むしろ、「平等」であるべきではない。


【私を喪失していては、××と繋がることはできないから】


「虚像」というものは私から生まれるものだ。
それには、こうなってほしいという願望やこうなるであろうという予想とか
そういった、コンテンツと私が醸成した「感情」が込められる。

それを喪失すると、『コンテンツは浮いてしまう』
私という地面を失い、誰にも手が届かない領域へ押し上げられる。
そして忘却の彼方へと飛び去っていく。

【××と私の間には何も無かった】

そういうことになってしまう。

だから、虚像はあってしかるべきものだと、私は思うよ。