huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

成長と文法


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ナニカを作らなくても
作り手の気持ちになることはできる。
ただ、作った方が腑に落ちるというだけ。
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文法というやつは
ゼロから構造を考える手間を省き、
カタチに沿って要素を組み合わせるだけで、
セカイに届くだけの成果を我々に与える。

文法というやつは
我々から嗜好や試行を奪い取り、
最後には思考そのものを喪失させる。
我々が最も憎むべき「敵」だ。

文法とは何か

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私は何時になれば現在を勉強できるのだろう。
学校が教えてくれるのは過去と常識だけ。
いつになれば未来に向けて歩けるのか。
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私は文法を
「やり方」「メソッド」「解法」などと捉えている。
その根幹にあるのは、「表現の方法」だ。

ブログの書き方にも文法は存在している。
イラストを挟みギャルゲーテイストのようなものもあれば、
ただただ文章を書き続けるものもある。

また、文章と一言で言っても
「会話形式」や「小説形式」、「散文的」「論文調」など様々である。

あぁそうだ、漫画やイラストというのもあったか。

ブログ一つをとってみても、文法は様々である。
そして、どの文法が「正しい」ということはない。

【文法に正解はない】


「対象をどのように表現するのか」
それは、個人の自由であり、個人に即した表現方法がある。


つまり、
【文法とは、私が対象を表現するためのやり方】である。

テンプレートの利用

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テンプレート乙
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文法を語る上で切って離せないものが「テンプレート」である。
テンプレ―トについては、私は以下のように捉えている。

【テンプレートとは、セカイが共有する文法である】

その利用は、「表現」にかかる手間をカットし、伝達性を高める。

「この度は本当に申し訳ございませんでした」
「毎朝味噌汁を作ってくれないか?」
「一緒に行ってあげてもいいんだからねっ!」

文法が共有されているからこそ、
必要以上に表現に凝る必要が無いまま伝える事が出来る。

テンプレートに頼り切ることのまずさ、は以前書いたと思うので少しだけにしておきます。

テンプレートは共有されているからこそ、共有されている情報しか伝える事はできない。
「どうしてその言葉に到達したのか」という『本心』が欠落してしまう。
伝えたい想いこそが欠落してしまうんだ。

だからこそ、
簡易的なことにだけ「テンプレート」を利用するべきだと思っている。

私の文法の確立

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文法とは世界を解き明かす鍵だ。
私だけの鍵を手にするにはどうすればよいか。
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大きく二つのステップがある。

① 他人の文法を踏襲する。
  テンプレートや尊敬する他人の真似をするということだ。
  すでに誰かが作り上げている文法を踏襲することで、
  うっすらと自分の文法というものが見えてくる。
 
  だが、ここで一つ気をつける必要がある。
  それは、
 
  【「私」を見失わないこと】
 
  私を喪失してしまっては、他者の文法は他者の文法でしかなくなる。
  あくまでも、表現をするための手助けに留めておく必要があるんだ。
 
  【他人の文法に自分の表現を載せていく】
 
  【自分の表現に合うように、文法を組み替えていく】
 
  それが1つ目のステップ。

② 自分の過去を見つめ直す。
  思っているよりも大切なのが「過去」である。
 
  【過去を視ていなければ「成長」も「退化」も感じないでいられる】
 
  過去を視るという行為は、現在との違いを実感させる。
  「あの時はこんなに馬鹿だったのだ」と思えたならば、成長している証である。
  「あの時のほうが良いことやってる」と思えたならば、退化している証である。
 
  【『変化』は現在を実感させてくれるよい薬である】
 
  変化は刺激となり、私自身を変化の方向へと押し上げる。
  それ故に、過去から変化を感じる事は有益なのである。
 
  だが、それ以上に良く視るべきは「変わっていない」ところである。
  文法において「変わらない」ということは由々しき事態である。
 
  変わらない部分というものは、
  「慣れ」や「甘え」で表現しているということだ。
  慣れた文法に感情を押し嵌めてしまっている、ということだ。
 
  【「慣れ」は慣性を鈍化させる】
 
  過去を視なければ、甘えているという事実にすら気が付けなくなる。
  だからこそ、過去を見つめ直す必要があるのだ。
 



自分の文法を持つということは、
文法を自由自在に操ることができるということである。

つまり、

【文法に表現が制限されなくなる】

それこそが、個人が到達すべき文法である。