コンテンツに対する「私」の位置
普通の人の場合、「なんでそんな面倒なことを考えるのか」ということになる。
だって、自分がどこにいるのかなんて気にしなくても、コンテンツは楽しめるから。
だから、考えなくても楽しめる人には意味のない文章。
くだらないことにとらわれる面倒くさい私のための文章。
コンテンツに対する「私」の位置
コンテンツに対する「私」について考えるときは、
ギャルゲーを想像するとわかりやすいかもしれない。
①主人公としてその場にいる
②ヒロインとしてその場にいる
③彼ら彼女らを眺めている
ゲームをプレイしている際に、私自身がどの位置にいるのか。
自分自身が操作をしている主人公なのか。
主人公が干渉しているヒロインなのか。
はたまた、ただそれを眺めているだけの人間なのか。
奥まで考えていくと、さらに分岐しそうだが、
私が作品に対してどこにいるのかを考える分には、この三つの位置で十分だ。
私の位置は主人公である。
私の位置はキャラクターである。
私の位置は世界の外側である。
私の位置は遍在する。
私の結論は、「私の位置は遍在する」ということである。
実際、世界の外にいることもあれば、主人公である時もあり、ヒロインである時もある。
その時々によって、私の位置は揺れ動くわけである。
それは、つまり、私自身が世界であるということだ。
というか、そう考えないとおかしいんだよ。
私が彼女たちの物語を見ているとき、
・彼女たちの関係性を楽しむ。
・あの娘としてあの世界を楽しんでいる。
・人や世界を通して見える世界に思いを馳せる。
・世界そのものを構成している要素を解き明かす。
・etc……
どの位置からでも当たり前のように楽しめる。
だから、「××の視点で楽しまなくてはいけない」なんてことはない。
私が私である限り、空想の中に固定する場所を得られるわけがない。
つまり、どこかの視点に固定されていないことは悪ではない。
みんな遍在する位置の中で得意とする位置から言葉を紡いでいる。
あるいは、遍在する位置の中で最も面白いと感じる位置から言葉を紡ぐ。
自分が好きな位置はどこなのか、っていうことがわかれば
よりコンテンツを楽しめるようになるんじゃないかな。
それで時折、違う視点を深堀ってみたりして、
「やっぱりちがうなー」とか「これも面白いなー」とか思ってみればいい。
楽しみ方に「共通の正しさ」なんてないんだから。