huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

君の眼と私の眼は違う素材でできているんだよ?

他人のブログを見ていたりすると、

「いやいや、なんでそこに疑問を持たないんだ」
「そんなところ気が付かなかった」
「アレとソレをつなげるとそんな風に跳べるのか……」

そんな風に、驚かされることがある。
私では気が付けないところや、私が見ていた場所とは違う場所を
彼ら彼女らは見ているのである。

そんな彼ら彼女らを見ていると、

「こいつは私とは違う時空からやってきたのではないか」
パラレルワールドの住人じゃないのか」

と、思ってしまう。




……違うコンテンツに触れているわけではないのに、
これほどまでに大きな「差」が生まれてしまうのは、
彼ら彼女らの「眼」と私の「眼」の素材が違うからだ。



君の眼と私の眼は違う素材でできているんだよ?


眼の素材

眼の素材は一人ひとり異なっている。
似通っている部分はあるかもしれないけれど、
同じ眼を持っている人間はこの世には存在しない。

私は、「触れてきたもの」で違いが生まれているのではないか、と思っている。
もちろんどういう風に触れてきたか、というところもあるのだけれど、
「触れてきたもの」つまり、「コンテンツそのもの」の影響力は大きいはずだ。

絵描きが絵描きの視点で物事を見てしまうように、
「触れてきたコンテンツ」の視点で物事を見てしまうのではないだろうか。

例として私を出す。

自己分析

①言葉への愛
神林長平や声優への傾倒を通じて形成された眼であると感じている。

神林長平の作品を通じて「生きた言葉」という存在を知覚した。
声優への傾倒を通じて「命を吹き込められた言葉」を感じた。

そういうものを通じて「言葉への愛」が形成された。


……そういう理由なのかはわからないが、
私は「言葉」を見てしまう傾向にあるらしい。

最初に「言葉」ありき。
プラスティックメモリーズを見続けた原因は「特設ページの朗読」だった。
俺ガイルを買って読んでいる理由は「一つのセリフ」であった。
月の珊瑚を購入した理由は「背面に刷られた言葉」であった。

言葉に対する期待値が高いのだろうな。
それらしい言葉に出会うだけで心が揺さぶられる。

なんてちょろい人間なのだろう。

②面倒くさい××が好き
素直になりきれない少女とか、
捻くれていないといけない少年とか、
正直に生きたいのに生きられない彼とか、
間違っているのに動けない彼女とか、
ありえない幻想を抱き続ける彼らとか、
夢と戯れる彼女たちとか。

「面倒くさい」という言葉は違うのかもしれないけれど、
そういうズレた部分を気にしてしまう傾向がある。

「素直にいかないきれいなもの」への憧れというのだろうか。

エマノン、阿求、レイシア、妹紅、アイラ……
生きる時間が違う彼女たちの物語が本棚に並べられている。

すべてを引き継ぐ彼女
死に続ける彼女
人とは違うモノ
永遠を生きる少女
81920時間を生きる少女

そういうコンテンツに触れ続けていたせいか、
そういうものへの憧れが強く残っている。

素敵な眼の獲得

とまぁ、私の「眼」について少し書いてみた。
実際は、もっとごちゃごちゃとしたものから「眼」はできているが、
コンテンツによってある程度の指向性は持たせられるのだと思う。

ミステリに触れれば、「謎解き」の眼が手に入る。
SFに触れれば、「外側」の眼が手に入る。

そんな風に、コンテンツで指向性を与えてやれる。

ねぇ、まなびちゃん。
私ねずっと知りたかったんだ
まなびちゃんにはこの世界がどんなふうに見えてるのかなって
まなびちゃんはいつだって退屈な毎日の中にきらきらわくわくの種をみつけちゃう
まなびちゃんの眼はきっと私とは違う世界が見えているんじゃないかな
まなびちゃんにはどんな世界が見えてるのかなって……
でもね、でもねまなびちゃん。
いまなら見えるよ
私にも見える
―――まなびストレート

いつか、私にも君の風景がみえるのだろうか……