huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

私の文章の書き方

私の文章の書き方は変容した。
というと、多くの人は「何を当たり前な事を」と思うだろう。

人は言葉で出来ている。
それゆえに、人は周囲の言葉に影響をされる。
良い言葉も悪い言葉も全部含めて一人の人間を作り上げる。

だから、「文章が変わる」というのは当たり前な事だ。
言葉から断絶した生活を送っているならば別だが、
普通の人は何かしらの言葉に触れて生きているから。

ただ、今回私が問いにしているの「文章の書き方」である。

文章に対する向き合い方や文章との付き合い方が
近頃、私の中で変容してきているということについてだ。

・結論を前提とした文章の書き方(企画型)
・結論を探すための文章の書き方(思索型)

今回は、自分の書き方を振り返りながら、
文章との向き合い方について考えてみたい。

結論を前提とした文章の書き方(企画型)

数多のアイドル達が「トップアイドルになろうと努力する」ように、
文章を書く人間は「××を書こう」と決めて文章を書いたりすることがある。

最近私が書いたモノだとコレとかがそうなる。
huzai.hatenablog.com

「コンテンツを観る軸を決めて、あなたの軸を手に入れよう!」
という結論のために文章を捏ね繰り回して書いたのがこの文章だ。

ぶっちゃけていうと、「不必要」な文章なんだ。
この文章は私にとってたいした価値も意味も持っていない。
これを書くくらいならば、Twitterに一言だけ書いていた方がましだ。

こんな書き方をすると「言葉が情報を伝えるための道具になりさがる」から
私はわざわざインターネットでそういう書き方にこだわる必要はない、と思っている。

企画書を書いているとか、誰かに伝えたい何かを書いているならば別であるが、
一言で済むような「事実」とか「知識」とかを伝えるのに、文章を捏ね回すのは
随分とアレな気がしてならない。

ただ、「感情」や「主題」を表現する分には良いのではないかと思っている。
作品に触れた時の感情とか、1つテーマに対してどのように書くのかとかそういうの。
自分の内側にある「○○とは××である」を伝えるために書くのであれば、
むしろこういう書き方の方が伝達力は高いため、利用するべきだ。

結論を探すための文章の書き方(思索型)

どこか分からない場所へ到達するための書き方。

「どうしてアイラは可愛かったのだろう」「どうして友達がいないのだろう」
「どうして彼は手を差し伸べたのだろう」「彼は何がしたかったのだろう」
そういった「問い」を起点にして始まる文章がコレ。

私の文章の大半はコレに当てはまると考えている。
結論なんてないまま書いた場合も、結論ありきで書いた文章も
そのどちらもが何かしらの問いに対する答えを求めて書いていたものだ。

それゆえに、ブログの記事としては使い勝手が悪い。

「問いの答えへの到達」なんてものは自分のために行われる。
それを読んでいる誰かは「私ではない」のだから、
そこに書かれた文章の多くは不必要/意味不明なものになりかねない。
(だから、私は記事としてよりもそこにあるかもしれないあなたのための一文だけを読んでもらえたらそれでいいなんて考えたりもしている。)

加えて言うならば、「作品」としての価値は薄い。
私のような未熟者のやり方では、中途半端な結論になることもしばしばあるし、
答えのために文章が「跳ぶ」こともあるので、時折支離滅裂となる。
そしてなによりも、「完成しない」ことが問題だ。

私の過去記事を振り返ってもわかるように、
一部の問いは何度も何度も繰り返している。
もし、作品として完成させていたならば、
その問いは終わっているはずであり、
振り返る必要のないものであるはずだ。

だが、何度も繰り返しているということは
過去の結論に対する「続き」や「別案」があるということだ。
あるいはそう思わせる何かに出会ったか。

加えて言うならば、ただひたすらに積み上げていくので
横道に逸れてしまったり、途中の時点で完成としてしまったりしてしまうことが問題だ。

だが、私はこういう文章の書き方を好む。

求めるべきは「探究型」

さて、以上のように私の文章の書き方は2通りあるようだ。

①結論を前提とした文章の書き方(企画型)
②結論を探すための文章の書き方(思索型)

もちろん、文章の用途によって使い分けるという話は当然のことであるが、
私としてはどのようなスタイルでもって文章に臨むのかということははっきりとさせておきたい。

「プロットとか考えられないから思索型」とか
「答えがないと書けないから企画型」とかではなく、
私はこのように「書く」ということを定めておく。
そういう小さな意識から大きな変革を起こすことが大切なんだ。

結論を先に言うと、どちらでもない新たなスタイルの構築だ。
「企画型」と「思索型」の2分法で凝り固まった私のフレームワークを破壊する。

①ベースは思索型
 おそらく私は誰かに伝えるために文章を書くということに意義を見出していない。
 というよりも、現在進行形で他人が存在していないため書く必要がないのだ。
 だから、ベースは「思索型」になる。
②「何のために書いているか」を意識する
 この文章は「何のために書いているのか」を意識するということだ。
 戻ってくるべき「問い」さえ忘れなければ、文章がどこかに跳んでいくことも減らせるはずだ。
 今回の場合だと、「どんな風に文章を書いていくか」になる。
③他人以外を意識しない
 ブログを読む人は多数存在しているが、意識するべき他人は一人だけでいい。
 この文章はあの人向けとか、あの文章はこの人向けとかそんな感じのこと。
 意識する必要のない人間まで意識して、自分を拘束されないようにすること。
 
 現在は私の為の文章しかないが、いずれ他人のための文章も書いていくつもりだ。
④作品を意識する
 内側だけを意識すると、甘えてしまう「隙」が生じてくる。
 それは、未完成のまま終わりを迎えたり、文章が跳んでしまったりということだ。
 一度完全に終わりを付けることで、新たな思索に足を向けることが出来る。
 具体的には問いに対する仮説を設ける事で、区切りを与える。

現状は上記の4点を組み合わせた「探究型」のスタイルで文章と向き合うつもりだ。
そうすれば、文章の書き方で迷ったりすることも随分と減らせることだろう。