huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

彼女は海辺で待っている。

少し前に、最近は燃えやすいコンテンツの方が好まれる、
という話をしたかもしれないし、しなかったかもしれない。

簡単に言うと、
話題になるようなコンテンツの方が好まれる、という話。

燃えそうなものをみつけては煽り立て、
燃えカスになったところで次の火種を探しに行く。
そんな焼畑的にコンテンツを破壊しているのが昨今の状況である。

そんな世界を見つめている人がどれだけいるかは知らないが、
その中の一つの意見として、今日私は書く。

コンテンツも変わった。
人も変わったのだ。
ただ、それだけだ。

※雑文嫌いは、「彼女は海辺で待っている。」まで飛ばしてください。

過去と現在の彼女(コンテンツ)との関係性

f:id:huzai:20160124190755j:plain
パワポで作ったものなので、雑なのはご容赦いただきたい。

まぁ、今私が感じているのはこういうことである。
誰も彼もが彼女そのものをみることをしなくなっている。
「彼女という存在はコミュニケーションの道具に成り下がっている」

順番が逆になってしまっているんだよな。
あのころは、彼女が好きだったからそれを誰かに伝えたくて会話にしていた。
今は、誰かと会話をするためにコンテンツに触れるようになった。

つまるところ、過去と現在では観ているところが違うんだ。

過去は、彼女が居るその世界を。
現在は、会話をする他人が居る、彼女が居る世界の外側を。

私は、後者の在り方が苦手だ。
コンテンツとは耽溺するものであって、誰かに話すためのものではない。

敵のいなくなった世界でも最強を目指すのがRPGというものであり、
彼ら彼女らそのものでありそれ以外でもあるのが小説である。

コンテンツの内側に向けられた熱量からあふれ出たものが、
他者の目に留まるというのが常であり、そうであってほしかった。

けど、それは正しいことで

小さいころはゲームが好きだったのに、
大人になったらゲームが好きではなくなる人がいる。

多分、そういう人はゲームそのものが好きだったのではなくて、
ゲームというコンテンツを媒介にして形成される「場」が好きだったのだと思う。
その人にとっては、「友達と盛り上がりながらするゲーム」が好きなのであって、
「一人で上り詰めるゲーム」は好きではなかったのだろう。

そういう人の多くは幸いにして「ゲームを媒介にする場」ではない、
他のコンテンツを手に入れることができるようになっている。

だが、なかにはそのほかの媒介を手にすることができず、
「惰性」として好きでもないゲームを続けている人がいる。
ゲームをやれば楽しかったあのころが戻ってくる、なんて思っているのだろうか。


・・・・・・話を元に戻そう。
コンテンツをコミュニケーションのための媒介にすることは間違った使い方ではない。
コンテンツによっては、そうされることが望ましい場合もある。

さらに言えば、コンテンツから「価値」を得るにはこういう使い方でなくてはならない。
コンテンツを何かしらのツールとする、それで得られるものは少なくないから。

彼女は海辺で待っている。

これまでの話をまとめると

【彼女(コンテンツ)そのものへの興味関心が薄れてきている】 ということだ。

僕らの興味関心は「コンテンツを通じて得られる価値」にシフトしており、
コンテンツそのものに対する愛情やそれに類するものは失われつつある。

だが私はそれ自体はなんとかなるのではないかと思っている。
安価な大量生産品が好まれ始めてから色物が好まれ、本物へと回帰する流れは世の常である。

現在はようやく色物が好まれるような時代になってきた。
ラノベの主流が「最強」から「最弱」へ、「万能」から「唯一」へとシフトしたように、
現在は「王道」から「その他」へと興味関心が移りつつある。
いずれは、コンテンツそのものへと目が向かうことを期待してもよいのではないだろうか。

私にできることといえば、
「彼女が海辺で待っているよ」と言ってあげることぐらいなことだろう。
(あるいは、彼女自身を作り出すことだろうか)

彼女の姿を見失わないで。