"考えていない"なんてことを"考える"。
"人間とは考える葦である"とか、そんな話を聞いたことがある。
それが何を意味しているのかは知らないが、"人間とは考える生き物だ"ということには同意を示したい。
我々は常日頃から何かを"考えている"。
今日の晩御飯は何にしようとか、明日は何を着ていこうか、なんて風に、
些末な日常についてあれやこれやと無意識のうちに考えている。
だが、よく偉そうな本で語られている"良く考える"とか"深く考える"ということとそれは異なる。
哲学などでも話題になる"正義とはなんであるのか"、"人生とはなんであるのか"なんてことについては
普段は"考えていない"わけである。
こうした日常的に"考えること"と"考えないこと"の間には大きな溝があり、
その溝に横たわっているのが『意識』という問題である、と私は思っている。
明日着る服や今日の晩御飯といったものは、無意識の内に認識して考えていることだ。
対して、正義や人生なんてものは意識して考えていることだ。
無意識で処理できることについては思いを巡らせるだけで事が済むが、
無意識で処理できないことについては思考を巡らせる必要が出てくる。
当人にとってより日常的な出来事(いわゆる当たり前)なことであったり、
既知な出来事、つまり『何かしらの答えを用意できる問い』であれば無意識で処理してしまえる。
逆説的に、"考える"とは『答えのない問い』に挑むという行為と考えることができる。
だが、"考える"という行為にはもう一つの意味が隠されていると私は考える。
それは、『答えのある問い』に挑むという行為でもある、ということだ。
既に答えが出ている問いを問い直すということは、
既に持っている答えを破棄して、その先に、その奥にある答えを求めている行為だ。
それもまた先の話と同様に『自分に用意できない答えを求める』行為だと考えられる。
つまり、だ。
"考える"というのは『答えを持っていない』とか『気に食わない答えしかない』という
自分が対峙している現実に対する否定を意味しているわけである。
現実を変えようとする意志のなのである。
"考えていない"ということはそれがその人の現実には関係ないものということ。
それは、そのことについて考えてもその人の現実にはなにも影響がないということではなく、
そのことをその人が認識していないということである。(あるいは認識しないようにしているか)
見えないものはいないのと同じこと、という理論だ。
整理⇒結論
①人間は"考える"が、"良く考える"ことは少ない。
②"考える"と"良く考える"の間にあるのは『意識』という問題である。
③『答えを持っている問い』は『無意識が』、『答えのない問い』は『意識的に』考える。
④『意識』と『無意識』の間にあるのは、当人の現実にとって必要であるかどうか。
⑤"考えていない"ということは、当人の認識から外れているということ。
結論
【考えなくとも世界は廻るが、当人の枠は広がらない】
追伸
考える理由はもう一つありました。
それは、"忘れられないから"。