huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

ぼっちは世界を変えたがる

今日も明日も雑文ばかりを書き散らす。
多分、そうすることでしかこの曖昧な感情を外に出してしまうことはできないから。

ぼっちは世界を変えたがる

身近なところに敵はいるが、味方がいない。
なんて風にぼっちは考えてしまったりすることがある。

かくゆう私もその一人である。
自分の皮膚の外側にあるものはすべてが敵であり、
味方は皮膚の内側にしか存在していない。

皮膚の内側にあるのはアニメとかゲームとか漫画とか、
そういった「虚構の世界」を通じて得られた謎の経験ばかりで、
空想と妄想のなれの果てが私の体内に『味方』として渦巻いている。


そんな空虚な味方だけを心の内に秘めてぼっちは現実と戦う。


ぼっちが戦うべき敵とはなんであるか。
それは学校であり、社会であり、人類が共有する世界そのものである。
それらは数年前に『空気』という言葉で表現されていた。

学校も、社会も、世界も、空気も、それぞれ言葉は違っていても
それが指しているものはただ一つであるが、それを言葉にすることは難しい。

人間と人間の間に生まれる『流れ』とか、
コミュニティの間で共有される『言語』とか、
彼と彼女の間に発生する『雰囲気』とか。

そういう『複数の人間』が『同時に生活する』ために、
我々は『規範(ルール)』なるものを共有している。

そう、ぼっちが戦っているのは『現実を取り囲む規範(ルール)』なのだ。

・・・・・・だが、現実を過ごしている人達はそんな『規範(ルール)』に疑問を持たない。
と、いうよりも疑問を持つ必要がないのである。

人間同士が『幸せ』に暮らすために永い時をかけて作り上げてきた『規範(ルール)』が、
我々人間を守ってくれていることを知っており、その価値を、有用性を知っているから、
彼らはその『規範(ルール)』に疑問を持たないのである。

恐ろしいことに『規範(ルール)』というやつは現実に深く根を張っており、
これを取り除こうとすれば世界そのものを破壊することにつながりかねない。
人類にとって必要なインフラになってしまっているのだ。

だから、それを破壊しようとするぼっちとは悪であり、排除されるべき存在なのだ―――


なんて風に書いてみたところで、救われるものはなにもないだろう。
単純に「世界に立ち向かうぼっち」は得てして「何もない」だけでしょうよ。
どこにも本気になれる場所がないから、「世界」なんて舞台を平然と言葉にしてしまうのだ。




さて、次にぼっちが考えるのは「本気になれる場所」を探すことだ。
世界を相手取ることなんてできやしないと早々に諦めたぼっちは、『夢』に縋るようになる。
そしてぼっちが注力する先は大抵の場合「クリエイター」とかそういう方向になる。

コミュ障ぼっちの経験できる内容なんてたかが知れているというもので、
一番身近な経験である「アニメ」や「漫画」、「ゲーム」にその道を見出そうとするのだ。

それ自体は全然不思議なことではなくて、近くにあるモノを尊く思うのは一般的なこと。
サッカー少年がサッカー選手に憬れるのは当然の流れであるように、ぼっちがクリエイターに憬れるのも当然の流れ。


だが、サッカー少年とぼっちの間には決定的な溝が存在している。


・・・・・・友人というものは得難いものらしく、その分だけ人生が広がるらしい。
友人が見る夢は共有できるらしく、自分にはないものを友人から得られるらしい。

らしい、というのは私自身はそういった経験がないためあくまでも『そうらしい』のである。
でもまぁ、それは間違っていないだろう。自分とは違う方向を見ている人から情報を得られるのだ。
RPGでも有益な情報は他人から得られるのだし、友人からはもっと良い情報が得られるのも当然の道理。

せっかちな人は話が逸れていると思うかもしれないが、もう少しだけ待ってほしい。
マヴラブ御剣冥夜の台詞を引用し、話をもとに戻そう。

ここにきてよかった
御剣として生きていたならば絶対に知り得なかった
何ものにも代えがたいものをたくさん手に入れることができたのだ。
人との出会いはどれも大切なものだ・・・・・・

サッカー少年とぼっちの間にある溝とは「選択可能性」である。
サッカー少年は友人を通じて様々な経験をし、体験をし、生活したうえで「サッカー選手」という夢を追う。
友人とともに過ごす中で触れてきた「素敵な夢」や「楽しい経験」の中から「サッカー選手」を選んでいる。

対して、ぼっちはたった一人の経験値から「選択」をしている。
選択とは言っても「はい」と「いいえ」のどちらを選んでも意味がない選択みたいなもので、
それはもはや選択と呼ぶべきではない。ただ、それしか知らないからそれしか選べないのだ。

・・・・・・それってすっごく不安なこと。
だって、その行動には自分の意思というものが入っていないから。
なるべくしてなったのだ、といえば聞こえがいいが本心からそう思い込むことは難しい。
そのうえ、『他の選択肢を切って捨てた』という実感は永遠に得られない。


自分の選択が正しかったのだ、と思うだけの条件がどこにもないの。
本気になれる場所を見つけても、それがそうだとは信じられないの。


本気になれる場所を持っていても認識できないなら、
それは持っていないのと同義だから。