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huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

planetarian/ほしのゆめみの物語/死は救済/感想

この作品は「泣ける」作品です。


面白さの判断基準としての「感動」

planetarianについてツイッターなどで検索して必ず見つかる言葉が「感動した/泣いた」というものだ。
確かに、映画館に行ってみると場面が暗転した瞬間に鼻をすするオタクの音が響き渡る。
かくいう私もそのオタクの一人であり、"ほしのゆめみ"にかかわるシーンで静かに泣いていた。

私自身も泣いていたのだ。
あるいは感動していたといっていいのかもしれない。
だからといって、planetarianが「面白い作品」といえるかというと疑問が残る。

「感動」と「面白い」は別物だ。
泣きたいだけなら「感動コンテンツ」でも観ていればいい。
「感動した」とか「泣いた」とかを他人と共有したい奴だけがみればいい。

ほしのゆめみの物語

劇場版(以下星の人)は「ちいさなほしのゆめ」の続編である。
にもかかわらず、物語のすべてが「ほしのゆめみ」に殉ずるものとなってしまっている。

未来へ続く、繋がっていくはずの物語が、
ほしのゆめみという過去の亡霊に囚われてしまっている。
過去に魅せられた光に囚われて、未来へ進むことができなくなった人たちの物語。
星の人とは過去の光に当てられた愚かな人間への呪い。

それが"ほしのゆめみ"から始まる「感動コンテンツ」。

だが、この作品には一つだけ特筆すべき点がある。
それは「死は救済」という真実を残している点だ。

死は救済

この作品のキャッチコピーにもなっている
「天国を二つに分けないでください」という言葉にもあるように、
この作品は常に「死」と共にある。

そして人が、ロボットが死ぬときは「過去の亡霊」から解放された瞬間。
未来を見つめることができるようになった瞬間に、生きることから解放されて、天国に至る。

花菱デパートという過去から解放されたゆめみ。
ほしのゆめみの願いから解放された屑屋。

彼らは死ぬことによって解放された。
そして、現実の世界ではなく死後の世界で再び出会うことができた。
(死後の世界に、星の人の姿ではなく屑屋の姿で入っていったことからも、
 ゆめみから続く星の人から解放されたことを指示している)

それにこの作品に登場するすべての人間が死に際まで未来を見つめられない。
星の人は過去に囚われ、ちびっこも星の光(≒星の人)に囚われ、集落の人間は現在に囚われて。
誰もかれもが未来を見つけられないでいる。

死ぬことでしか救われない。
そんな世界の窮屈さと閉塞感を描き切った作品なのである。

感想

開幕から数分後、劇場には「これもしかしてただの総集編か?」という空気が漂っていた。
星の人の回想から始まった本編垂れ流しの映像に多くの人は困惑し、
一部の人はこれからほしのゆめみに待ち受ける未来を想い涙し、
ごく一部の人は本編の記憶を失おうと努力をした。

本編の最終話が流れた後に続いたのはほしのゆめみを救う物語であり、
垂れ流された本編はこのシーンのためにあったのだと、人々は気が付いた。
そのあとに残ったのは涙だけだった。

感想②

劇場に入る前のあの空気は忘れられない。
物語が始まる前の期待と不安をないまぜにした雰囲気はなく、
ただただ洗っていないタオルのような臭いが劇場内を覆い尽くした。
これが、オタクか。

感想③

「生きることしかできない人は、天国にはいけないの」

生きることに必死になっている内は外側のことは見えなくなる。
それは物理的にもそうだし社会的にも精神的にも時間的にも。

星の光を視る。
現在/過去/未来、そのすべてを見つめられるのがプラネタリウム
それは時からの解放であり肉体からの解放であり世界からの解放。

「上手にいきるには、世界から解放される瞬間が必要なの」
一切の娯楽がなく、肉欲に耽ることもできない世界。
そんな世界では過去も未来も失われてしまう。

そして、星の光を視た者だけが天国に行くことができる。
星の舟に乗ることができるのは星を見ることができた者だけ。

プラネタリウムはいかがでしょう?
どんな時も消えることのない美しい無窮のきらめき。
満点の星々があなたをお待ちしております。

感想④

今にして思えば彼女は噛み合わないような会話をしてまでも
屑屋をプラネタリウムに留まってほしいと願ったのだろう。

システム的な会話の中に自身の願いを込めていたんだ。
自身の考えを未知のバグだと信じきれない彼女の曖昧な抵抗。

彼女を回るモーターのようにロボットだと断じ切れなかったのは、それが理由だったのだ。

壊れていたのではなく、ただただ・・・・・・