huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

夏めろ summer melody にみる印象と解釈の違い。

「人は見た目が9割」なんて言葉が随分と昔に流行った気がする。
当時は、第一印象で人間というものが規定されてしまうなんて、
現実というやつはよほど不細工というものが嫌いらしい、とか思ったりしたものだ。

だが、今回テーマに挙げるのはコンテンツの話だ。
コンテンツについては上記の「第一印象が9割」なんていう話が適用されない。
それ故に我々は困惑するのだー!みたいな話だ。

例えば、私が直近にブログに書いたコレ。
huzai.hatenablog.com
「少女の少女性は未成熟さにある」とか書いてしまっているが、
実際は解釈に解釈を重ねることで、なんとかこういった結論に落とし込んでいるのである。

当初の感想は以下の通りである。
・水上秋について
 文学少女と運動という相反する属性を兼ね備えた彼女は、多くの男性を虜にするだろう。
 しかし、その実態は属性だけを付随させたただの雌豚(≒少女)であったのだ。
 
 製作者はあたかも、眼鏡をかけさせれば図書委員長が出来上がるとでも思っているのではないだろうか。
 文学と運動というどちらに転んでも男性を喜ばせることのできる属性を用意するだけでそれが彼女の軸にはなり得ていない。
 付随された属性という虚偽に包まれることで、先輩(プレイヤー)という立場を満足させるためだけの少女。
 そうであるならば、彼女はただの雌豚だ。

・エロ表現について
 「女の子が・・・・・・男に可愛がってほしいのは・・・・・・自然なことなんだから」
 後輩と先輩という立場を最大限に利用して、男性の征服欲を満たすためだけに用意された語群に吐き気を催す。
 
 特に、「おち●ちん欲しかった・・・・・・?」から始まり、「秋は男の子だもん」⇒「ごめんなさい・・・・・・秋は・・・・・・女の子でした」で締めくくられる一連のやり取りは、『男の子ってこういうのがすきなんだろ?』みたいな物語の外部から横やりを入れられたような気分にさせられる。

 水上秋から人間性をはぎ取って、ただの少女に貶めるこの行為にどれだけの意味があるというのか。
 ――いや、エロゲーというものは塗り固められた個性(≒属性)を破壊し、セックスを通じて少女に戻す行為を描いているのか?
 そうだとするならばこの作品は少女性を取り戻すための儀式であるのか?断じて否である。無意味。虚偽。欺瞞。
 こんな世界は嘘である。


我ながら、よくもまあこんな言葉を書いていたものだと思う。


だが、これこそが私が第一に感じた感想なのである。 
一言で言ってしまえば「なんてクソゲーだ」というやつ。

だが、いくらかの解釈を重ねることによって以前投稿したような文章になるわけである。
たしか「少女の少女性」についての話だっただろうか?
要約すると以下のようになる。

年上に惹かれる気持ちや小説が好きといいながらも一般の枠から逸脱しないレベルであったり、
運動部に所属しているが逸脱した人間ではなくよくある悩みを抱えているとか。
そういった(私が虚偽とした)薄い膜のような属性を持っているのが少女なのである。

ナボコフ先生ではなく、東野圭吾を読んでいるようなそんな少女なのである。
ふとした拍子に消えてしまうような属性を持つ、そうした自己の確立がされていないところが
少女を少女足らしめるのである。





・・・・・・とまぁ、こんな話をしたのにはわけがある。
印象を深化させることで別の感想が浮き上がるという話がしたいのだ。

今回は、第一印象である「少女の属性が虚偽であった」ことを深化させることで「少女らしさの実感」につながった。
つまり虚偽である属性は、少女の移ろいやすい心を表すためにあったのだ、と気が付いたわけである。
そして、それを「少女の少女性は未成熟さにある」とした。



もし、今回のような解釈を重ねていなかったとしたら、
私にとって「夏めろはただのクソゲー」でしかなかった。

だが解釈を通じてその印象は変化したのである。


つまり、こうだ。


解釈を通じて物語は変容する。
そして、変化した物語は元のソレとは別物になってしまう。
解釈って二次創作だ。

元の物語をそのままにしておくためには文章を書いてはならない。
それをそのまま受け止めることしかできないのである。

私という個人が挟まってしまった時点で、
物語はそちら寄りに歪んでしまうから。


だからこそ、『批評』というやつは
個人を排し客観的な事実や社会的な文脈で読み解こうとするのだろう。
物語を損なうことなく確立させるために。

最後に

私は批評というものを『物語に価値を求める行為』だと認識している。
コンテンツの地平線にある様々な文脈(それは時折社会や世界と呼ばれる)のうえで、
どのような価値があるのかを語る行為であるからだ。

逆に、私が書いているようのただの感想は『物語に意味を求める行為』だと認識している。
自分に対してどのような意味があったのか、についてを書いているだけであり、
それを通じて私は物語を想い出に昇華してしまいたいだけなのである。

・・・・・・なんだか、以前も書いたような話になっている気がするが、
人間というものは忘れっぽい生き物なのでこれでもよいか。